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歴史に「if」をあえて持ち込んだ映画『アレクサンドリア』がえぐり出す「真理が葬り去られた瞬間」、またはローマ人の『三丁目の夕日』について
»2011年3月 1日
高瀬文人の「精密な空論」
歴史に「if」をあえて持ち込んだ映画『アレクサンドリア』がえぐり出す「真理が葬り去られた瞬間」、またはローマ人の『三丁目の夕日』について
フリーランスのライター/編集者/書籍プロデューサー。 月刊総合誌や『東京人』などに事件からまちの話題、マニアックなテーマまで記事を発表。生命保険会社PR誌の企画制作や単行本の編集も行う。著書に鉄道と地方の再生に生きる鉄道マンの半生を描いたヒューマンドキュメント『鉄道技術者 白井昭』(平凡社、第38回交通図書賞奨励賞)、ボランティアで行っているアドバイスの経験から生まれた『1点差で勝ち抜く就活術』(坂田二郎との共著、平凡社新書)、『ひと目でわかる六法入門』(三省堂編修所、三省堂)の企画・制作。
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ウィキリークスの時代に、そして、中東の独裁体制が革命で崩れていく時代に。
まさに「いま」見て面白い映画である。
4世紀、ローマ帝国が支配していたエジプト・アレクサンドリア。アレクサンドリア図書館長を父にもつ女性科学者ヒュパティアは、学生たちに慕われる教育者として図書館で哲学や天文学の授業を行うかたわら、天文学者として、いままでの観念をくつがえし、ある真理に到達するための研究を行っている。
「真理」を尊ぶヒュパティアだが、彼女が属している、それまで権勢をふるっていたローマ帝国のエジプトが信仰していた多神教に対し、一神教であるユダヤ教と原始キリスト教がアレクサンドリアで台頭する。特に原始キリスト教は広場(この映画の原題は、広場を意味する"AGORA"だ)で「奇跡」を見せて多くの信者を獲得、それを快く思わない多神教徒がちょっかいを出したのをきっかけに大規模な衝突に発展した。
キリスト教徒であった東ローマ帝国皇帝テオドシウス1世は、非キリスト教の施設の破壊を許可し、アレクサンドリア図書館はキリスト教徒の手に落ち、略奪と放火の中で、ヒュパティアたちは一転追われる身になった。
それでも研究を続け、ある真理にたどりつくヒュパティアだったが、同時に迫害のときが訪れた......。
アレクサンドリアを舞台にした多神教徒と原始キリスト教の闘いを描く一大スペクタクルに、ヒュパティアに求愛していたかつての教え子と、やはり好意を寄せていたヒュパティア一家の奴隷がからんでのロマンス。超大型歴史叙事詩である。ヒュパティアは気高く、美しい。求婚する教え子に「自分は女である」ことを見せつけるシーンはなかなかの驚きだ(これは史実であるという)。それだけ見ても面白い。
しかし、アレハンドロ・アメナーバル監督は、ある大胆な仮説をこの映画の中心に据えた。これが、この映画を現代に鋭い刃を突きつける迫力のあるものとしている。
もし、歴史上の事実が、別の時代(あるいは世界)のことだったら......
この手法を使った作品として、たとえば横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)がある。現実にあった日航ジャンボ機墜落事故に遭遇する架空の地方新聞社(つまり、パラレルワールド)を舞台に設定することで、この小説は、墜落現場の特定、御巣鷹山での生存者発見、遺族の遺体確認、事故原因追究という現実と同じ時間軸を使って、新聞記者たちの活躍と葛藤、遺族が情報を求めて新聞社に来ることで気づく「読者の求めるもの」、そしてスクープに迫る執念と挫折を描いている(ちなみに佐藤浩一主演のNHKドラマ、堤真一主演の映画があるが、圧倒的に前者がおすすめだ)。同時代を生きた読者、あるいは視聴者は実際に何が起きたか知っているので、よりリアルな感覚をもって記者たちの世界に没入したのである。
アメナーバル監督は、これと同じ手法を使って、実際にはわからないヒュパティアの研究を「あるもの」に設定するという荒技に出た。この「あるもの」があまりにも現在では当然の「真理」であるので、観客はヒュパティアの視線に寄り添ってこの映画を見ることになる。言葉を変えれば、アメナーバル監督はこの仕掛けで、映画の中に出てくる神々とは違う「真理という神」の視点を観客に与えた。現に、それを暗示するショットが挿入されている。そうすることで、観客は対立する宗教を相対的に眺める視点を得て、スペクタクルの部分である多神教と原始キリスト教の争い、そしてキリスト教徒による迫害を中立的な眼で眺めることができる。これはわれわれ日本人にはピンと来ないけれど、ヨーロッパのキリスト教社会においては相当大胆な試みだといえよう。
そんな視点からは、大きな歴史のうねりと、その中で翻弄される個人がより際立って見える。「真理」に迫ろうとするヒュパティア(レイチェル・ワイズ)はますます気高く美しく、求婚したこともある教え子で後にアレクサンドリア長官となるオレステス(オスカー・アイザック)の俗の世界に身を浸しながら聖なるものを守ろうとする苦闘、やはり愛を告白しながら受け入れられなかった奴隷ダオス(マックス・ミンゲラ)の魂がさまようさまが胸に迫る。この3人がからむラストシーンは必見だ。登場人物の所作にはすべて意味があるので読み取ってほしい。
アメナーバル監督が「真理」をめぐってラストシーンに込めたメッセージは重い。ひとことでいえば、「知る」という営みの受難の歴史である。監督は、ヒュパティアと図書館の受難に象徴的な意味を持たせているが、映画を見終わってから、たとえば、いま中東で起きている革命とは何なのか(アレキサンドリアは、エジプト革命の鍵を握ったと見られる「ムスリム同胞団」の拠点とされている)、そして、日本ではほとんど報じられていないが、ウィキリークスと主宰者ジュリアン・アサンジュを、各国がなぜこれほど危険視するのか、改めて考えてみるのも一興だろう。この映画が突きつけているものは、決して歴史上の「おはなし」ではなく、私たちと無縁のものでもないのだ。
ところで、この映画では膨大な考証をもとにローマ時代のアレクサンドリアのにぎわいやローマ帝国時代の生活を、実にリアルに再現している。まるで自分がアレクサンドリアにいるかのようなリアリティがある。ステディカム撮影で手持ちカメラ風にアレクサンドリアの街の奥深くに入っていくカメラワークは歴史ドラマとしては新鮮で、後半の戦闘シーンの迫力を増している。
さらに、ヤマザキマリの風呂マンガ『テルマエ・ロマエ』を読んでから見ると、何をしているのかわかるシーンがいくつかあるだろう。筆者は、トイレにしゃがむ人のカットを見つけて楽しかった。そう考えると、この映画をローマ人が見れば、懐かしい『三丁目の夕日』と見ることもできなくはないかもしれない(そんなばかな)。
〔映画『アレクサンドリア』、3月5日(土)から丸の内ピカデリー・新宿ピカデリー・なんばパークスシネマなどでロードショー〕