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岩波を出よ、岩波を捨てよ
高瀬文人の「精密な空論」
岩波を出よ、岩波を捨てよ
フリーランスのライター/編集者/書籍プロデューサー。 月刊総合誌や『東京人』などに事件からまちの話題、マニアックなテーマまで記事を発表。生命保険会社PR誌の企画制作や単行本の編集も行う。著書に鉄道と地方の再生に生きる鉄道マンの半生を描いたヒューマンドキュメント『鉄道技術者 白井昭』(平凡社、第38回交通図書賞奨励賞)、ボランティアで行っているアドバイスの経験から生まれた『1点差で勝ち抜く就活術』(坂田二郎との共著、平凡社新書)、『ひと目でわかる六法入門』(三省堂編修所、三省堂)の企画・制作。
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岩波書店の、ことしの新規採用で、応募条件として「岩波書店(から出版した)著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」が明記されたのだそうである。
縁故採用を明言する理由として、例年1000通の応募があり、「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」(47NEWS)という理由が挙げられている。
橋下徹大阪市長と、「岩波文化人」(岩波で本を出している人のことを、かつてこう呼んでいた)であるところの山口二郎、香山リカとの論争が話題になっている折から、私はこれを、象徴的な出来事であるととらえている。
■自ら「タテマエ陣営」の旗を下ろす
学術系の出版社では、いわゆる縁故採用はふつうにある。
私がそういう出版社に公募で入社して間もなくのこと、たまたま母校に仕事で行く用事があったので、ゼミの教授に挨拶に行った。
彼は開口一番、こう聞いてきた。
「君は、誰のコネで入ったの?」
いや、あんたが推薦してくれなきゃ、私にはコネはないんですけど。
ほとんどの出版社は規模が小さく、欠員補充程度の採用しかしない。だから有力な著者に推薦してもらって、確かと思われる人材を採ったほうが手堅いと考えられている。また、専門知識が即戦力として必要とされる場合も多く、縁故採用によって、その質の保証が得られるメリットもある。岩波自体も、90年代なかばまで公募による採用をやっていなかったと記憶している。公募になった後でも、「実は縁故採用である」とはずっと囁かれてきた。
別に縁故採用を禁じる法律があるわけではなし、本質的にはあげつらうほどの話ではない。
役所みたいな会社であるから、どうせ、たくさんの書類が来て処理が大変だから、というという理由が本当のところなのであろう。
しかし、この件が象徴する「価値」の問題は大きい。
岩波が標榜してきた「戦後民主主義の堅持」とは、平等という「壮大なタテマエ」を守ることであった。たとえば「憲法を守れ」というスローガンは、「タテマエを守れ」というに等しい。
確かにタテマエは空虚であり、既得権益を生み、それがどうしようもない腐臭を発している面があることは間違いない。ただ、それで守られてきた価値や少数者の人権などが、確かにあるはずだ。
橋下徹氏は、そのタテマエこそが「害である」と訴え、圧倒的な大阪市民の支持を得て市政改革に着手する。彼は、タテマエ=既得権益ととらえ、あらゆる戦術を使って一度解体しようとしている。しかし、それは「異議申し立て」であると、私はみる。つまり、一方的に押しつぶすつもりなのではなく、タテマエ陣営との議論を求めている。そうでなければ、わざわざ評論家の名前をあげつらったり、山口二郎や香山リカと論争するようなムダなことはしないであろう。
岩波は、自他共に認めた、タテマエ陣営の砦であるはずだった。しかし、縁故採用の言明は、間が悪かったように思う。自らその「タテマエ」を崩して見せたということにならないか。見方によっては敵前逃亡をしているようでもある。
■モノカルチャーに染まる危険
ここからは手前味噌の話をする。
私はフリー編集者の立場で、「出版できないか」と相談を受けた企画を岩波書店に持ち込んで、断られたことがある。
「うちは、"反貧困"でやっていくのでねぇ」
というのが編集者の返事だった。
企画内容が、キャリア女性のワークライフバランスの実証研究だったからだ。
熱心な編集者は、持ち込み企画をあまり好まない。自分のやりたいことがはっきりあるからだ。邪魔以外の何ものでもない。そういう人に当たったのかも知れない。あるいは、企画のレベルが低いと判断されたが、そういう名目にして断られた可能性もある。
しかし、私は「ひとつのカルチャーに染まっているのではないか」という疑念を持った。
同じころ、装丁家のパーティーで岩波新書の編集者と知り合ったので、こう聞いてみた。
「持ち込み企画が多いでしょう」
「どうしようもない企画ばかり、山になってるよ。断るのが大変」
驕っている、はっきりとそう感じた。岩波新書自体が激しく面白くなくなっていたからである。
こんどの採用では、岩波から本を出している著者と、岩波社員の推薦状のある者のみを選考の対象とするという。ずいぶん内向きかつ後ろ向きな方針であり、多様性は必要ないと言っているのと同じである。それは、知の柔軟性を欠いた出版活動の「実質」の低落傾向と、ひよわさをさらに助長しないだろうか。
ひとつのカルチャーに染まった組織は、強くならない。おそらく、今後も岩波の社会的役割を再構築し、立て直しができるような人材は入らないだろう。岩波はこれからもやせ細っていくだろう。
すべてのメディアには寿命がある。それは当然の話である。そのときが来たということだけかもしれない。
しかし「タテマエ」の価値がいまでも大切だと思っている人たちよ。
(私も、"ちっと"は必要だと思っている)
いい機会だ。岩波を出よ、岩波を捨てよ。
そしてみずからの言葉、みずからの力で闘うべきだ。
私はそう思う。