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「生き残るための」文章の書き方 ④『たとえ女子高生がバイトの話ばかり書いても』

「生き残るための」文章の書き方 ④『たとえ女子高生がバイトの話ばかり書いても』

高瀬 文人

フリーランスのライター/編集者/書籍プロデューサー。 月刊総合誌や『東京人』などに事件からまちの話題、マニアックなテーマまで記事を発表。生命保険会社PR誌の企画制作や単行本の編集も行う。著書に鉄道と地方の再生に生きる鉄道マンの半生を描いたヒューマンドキュメント『鉄道技術者 白井昭』(平凡社、第38回交通図書賞奨励賞)、ボランティアで行っているアドバイスの経験から生まれた『1点差で勝ち抜く就活術』(坂田二郎との共著、平凡社新書)、『ひと目でわかる六法入門』(三省堂編修所、三省堂)の企画・制作。

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「ケ・セラ・セラ」的なタイトルがついた、毎月1000字ほどの女子高生の小さな連載が法律雑誌で始まった。が......私の思惑は、しょっぱなから大きく外れてしまう。

■日々の明け暮れ=バイトに心砕く
もちろん、「毎日の生活で気がついたことを何でも書いてください。テーマは自由」と頼んだのは私だ。日常の話、身辺の話、もちろん歓迎だ。筆者は何しろ女子高生。堅い雑誌だけど、読者だって読みたいだろう。しかし、法律の雑誌なのであるから(表紙にもそう大きく書いてある)、毎回でなくても、何とか一定の法律ネタは入れてほしい。そう思ったのだが......。

毎月送られてくる原稿はマクド(ご存じだろう、関西におけるマクドナルドの通称である)のバイトの話ばかりだった。当時の彼女の生活で一番真剣なのは何かと考えると、それは実に真っ当なテーマ選定なのだが、なかなか彼女の「関心圏」がお勉強のほうに行かない。そのうち、ある私大の法学部に、小論文と面接のAO入試であっさり合格してしまった。「いくつかの大学の入試を渡り歩いて合否に一喜一憂する大冒険が、最初の山場だ!」と思い描いていたのだが、その目論見も、あっさりと粉砕されてしまった。

カーブを曲がりきれずスリップして、崖から真っ逆さまの編集者。
そのうちに、編集長からこう言われるようになった。
「バイトの話ばっかりだな」
「そうですねえ」
しらばっくれることにし、これで押し通した。

■編集者は、どこで踏ん張るか
彼女のコラムを担当するにあたり、私には自身に課した「しばり」があった。
「原稿依頼の趣旨はこういうこと」「こうならないか」と彼女に働きかけることだけは絶対にしないと決めた。これが文章についてプロのライターや学者ならば、編集者が持つイメージを思うさま伝えて、軌道修正しろと尻を叩いても許されるが、さすがに素人、しかも可能性に満ちてはいるが精神的に自立するかしないかというお年頃。他人の勝手な思い込みや大人の都合で人生を左右させるわけにはいかないからだ。

次の作戦として、毎月の原稿はていねいに見て、「対話」することを心がけた。つまり、「こう直したほうがいい」と思っても、私が直接手直しはしない。なぜ、これでは伝わりにくく、どのようにすればよくなるかを一度伝えて、彼女自身による原稿のブラッシュアップを待った。つまり、先に内面の言語空間を豊かにしようというのが狙いだった。
あとは書きたいことが自然にわき出るのを待とう。

では、どんなやりとりをしていたか。だいたいこんな感じだった。

・何を表現したいのか。
・そのために、どんな言葉を選んだらよいか。
・それをより深めたり、広げて表現するために、もっと掘り下げるべきことは何か。
・そのときの自分の心情はどうだったか。具体的に書く。

数回のやりとりで、彼女の文章はぐんぐん向上していった。飲み込みが早い。
そのうちにこんな小事件が起こった。彼女がある事件について意見を書いた時と記憶している。同じ雑誌に匿名で連載を持つ現職の裁判官(前回の座談会とは別の人)が、自分の原稿で彼女のコラムを批判してきた。相手は本気だ。さすがに高校生を、プロ中のプロである裁判官の攻撃に対して防御なしにさらすわけにはいかないと、舞台裏であたふたした。それだけ力がついたということか。

その出版社も退職したいま、書棚に1冊だけ残した雑誌を取り出してみた。彼女の連載は11回目。大学一回生の秋に書いたコラムをお目にかけよう。

......

感想文に感動!

 夏休みといえば、小学校からずっと付き物だった読書感想文。
これが数学のワークよりも大嫌いでした。数学や英語は答えが
決まってるけれど、こればかりはそうはいかず、毎年ギリギリに
仕上げて提出していました。今でも読書感想文と聞くだけで逃げ
の体勢になってしまうほど、嫌いな宿題でした。

 どうして読書感想文が嫌いなのでしょう。それは自分が選んだ
本を読んでも、文末がほとんど「おもしろかった」になってしま
い、箇条書きのような文章を並べただけの感想文しか書けなかっ
たからです。本を指定されている場合はもっとひどく、中身をパ
ラパラ読んで、あとがきや解説を読みながら作文を書いていまし
た。高校を卒業して、感想文とはお別れ!と大喜びしていました。

 ところが、です。今年、先生から与えられた作品を読んで小論
文を提出するという「文章論入門」という科目を選択していて、
その前期末テストの問題が、配布された司馬遼太郎さんの二つの
作品から一つ選び、その感想を八〇〇字で述べなさい、というも
のでした。あとがきはもちろんないし、解説もない、その上テスト
だから逃げるに逃げられない。感想文、苦手なのにな......気は進ま
ないのにテストは日に日に近づき、直前にようやく課題文を読もう
という気になりました。

 配布されたのは「洪庵のたいまつ」と「二十一世紀に生きる君た
ちへ」という、小学校の教科書用に書かれたものです。物語の感想
文を書いても、ろくなことは書けないだろうと決めつけ、後者を選
択しました。小学校六年生用だし、簡単だろうと思ったのも理由で
す。

 甘く見ていた課題文ですが、一読して涙が出てしまいました。筆
者がいいたいことは最後に書いてあると言いますが、その最後の四
行を読んだ瞬間、司馬さんの思い描いている二十一世紀を生きる子
どもたちの姿と、「真夏の太陽のように明るい」未来が、目の前に
ぱっと広がったのです。今まで多くの本を読んできましたが、こん
な経験は初めてでした。テストということをすっかり忘れ、「これ
は書きたい!」と強く思いました。先生に指摘されていた「無駄な
文が多い」という点を注意しながら仕上げました。さらに推敲をし
て無駄な文を省き、できあがった感想文を見ると、こんなに自分の
思いを素直に伝えることができるなんて、と我ながら驚かされまし
た。

 読書感想文は自分の感想を書くんじゃなくて、感動を伝える作文
なのかな、と思いました。

......

読者のみなさんのご感想はいかがだろうか。

いま改めて見ると、かなりよく書けており、構成もしっかりしている。
正解のない読書感想文を嫌い、「面白かった」しか書けない自分を情けなく思い、逃げていたあの頃。少し知恵がついて、あとがきや解説を手がかりにするも、不完全燃焼感は消えない。しかし「二十一世紀に生きる君たちへ」に出会って、自分の中から「表現したい!」という衝動がわき上がる。まさにこの部分。「最後の四行」を読むことで「ぱっと」浮かび上がる映像的な描写。実に鮮やかで印象的だ。

彼女自身の「書きたい!」という内なる衝動と、鮮やかな表現が一体となった瞬間でもある。

編集者はこういう原稿が仕上がったとき、
じんわりとした幸せをかみしめるのである。これこそが生きがいだ。

■私のいいたいこと
ところで、「筆者がいいたいことは最後に書いてある」というので、私も最後に「いいたいこと」を書いてみたい。

〈素晴らしい原稿だ。しかし、法律には一言も触れられていない。〉(つづく)