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書評:『チーズと文明』

書評:『チーズと文明』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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ポール キンステッド (著), 和田 佐規子 (翻訳)

偶に芳醇な赤ワインを飲み、フランス料理をいただくと、何故か、食後に無性にチーズが食べたくなるときがある。でも、これは何も人間に限った話ではない。9,000年前に、西アジアで生まれたチーズは、神々も大好きだったのだ。何しろ、シュメールの豊饒の女神イナンナは、チーズに魅かれて夫に羊飼いのドゥムジを選んだくらいなのだから。

本書は、人間の文明史と交差するチーズ9,000年の歴史を、分かりやすく語った物語である。チーズの起源から説き起こし、メソポタミアからアナトリアを経由してエーゲ海へ、エーゲ海からケルト人へ、そして、ギリシャ・ローマ世界からキリスト教の修道院を経てヨーロッパへと、チーズが夫々の時代や土地に合わせて、進化を遂げつつ拡がっていくプロセスを簡明に解説してくれる。

古代のチーズは、メソポタミアでは先ず、神殿に奉納されるものだった。また、ギリシャの神々はチーズの好みに、ことのほかうるさかったようだ。古代のチーズはローマで体系化されるが、それは、傑出した3人の農学者がいたからである(著書が残ったからである、と言い換えた方が正確かも知れないが)。カトーの農業論、ウァロの農業論、コルメラの農事論がそれである(因みに、このカトーは、「カルタゴ減ぶべし」で有名な大カトーである)。ここまでが前半であるが、現代のチーズの大半が既に登場していることに驚かされる。

本書の後半は、「荘園と修道院」(第6章)と題する中世から始まり、山岳チーズやロックフォールなど、チーズが多様化し成熟化するプロセスが描かれる。「乳搾り女」など、興味深いエピソードも華を添える。そして、市場原理を梃子にして、最終的にはオランダがチーズ王国に昇りつめる。その後、新大陸(アメリカ)にヨーロッパのチーズの製法が持ち込まれる。新大陸での奴隷貿易とチーズ製造との関係(ラム酒を加えた三角貿易)には、目からウロコが落ちた。

最後は、極めて今日的な問題が取り上げられる。EUが強力に推進しているPDO(原産地名称保護)規制と、それに抵抗するアメリカ等、新世界との対立問題である。一言で言えば、チーズの名称はどこの誰のものか、ということだ(これは何もチーズに限った話ではない。実は、ほとんどの伝統的食品に通底するテーマなのだ)。著者も、明確な答えを用意している訳ではない。結局は、みんなが考えるしかないのだろう。最終的には、コストを最低に抑えるアメリカ主導の近代的な生産モデルを、伝統モデルに置き換えるコストをだれが負担するのか、という問題に行き着くことになるのだから。ともあれ、チーズ好きには、とても嬉しい本に違いない。