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書評:『名もなき人たちのテーブル』

書評:『名もなき人たちのテーブル』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第30回_名もなき人たちのテーブル.png
マイケル・オンダーチェ (著), 田栗 美奈子 (翻訳)

9部門のアカデミー賞を受賞した名画「イングリッシュ・ペイシェント」の原作者であるオンダーチェの新作なら、これはもう読むしかあるまい。そう思って手に取ったが、想像を遥かに超える素晴らしい佳品で、すっかり嬉しくなってしまった。

スリランカに住む11歳の少年マイナが、たった1人で大型客船オロンセイ号に乗って、母の待つ英国へ3週間の船旅をする。この小説は、成長して作家になったマイナが、この船旅を回想して書いた、という体裁を取っている。したがって、59章に綴られたこの美しい物語は、現在と過去とが絶妙に交錯しながら、オロンセイ号と共に歩んでいくことになる。

マイナは9人の76番テーブルで食事をとるように指示される。このテーブルは、船長のテーブルから遠く離されており、いわゆるキャッツ・テーブル(原題。もっとも優遇されない立場)である。しかし、ここには、マイナと同じ年頃の2人の男の子がいた。病弱で物静かなラマディンと、暴れん坊で活発なカシウスである。3人はすぐに仲良しになる。キャッツ・テーブルの大人も、夫々に陰影が深い。鳩を連れたミス・ラスケティ、ジャズピアニストのマザッパ、植物学者のダニエルズ、等々。こうした人生の機微をわきまえた優しい大人達に庇護されて、3人の少年は、3週間の船旅の間に少しずつ大人に向けて脱皮をしていくのだ。ある意味では、この物語は、「朗読者」のような、一種の少年の通過儀礼の物語として読めないことはない。

しかし、そこはオンダーチェである。オロンセイ号の船上では、多彩で魅力的な乗客が次々と事件を起こす。美しいマイナの年上の従姉エミリー、旅芸人のハイデラバード・マインド、文学者のフォンセカ、耳の不自由な少女アスンタ、護送中の囚人ニーマイヤー等、役者には事欠かない。例えば、アスンタとニーマイヤーの事件は、ある意味、あまりにも鮮烈で、読者は一度読んだら決して忘れることはできないだろう。成人したマイナは、若くして死んだラマディンの妹マッシと結婚するが、ほどなくして別れ、淡い恋心を抱いていたエミリーと再会する。そして、カシウスとの再会を求めて、この物語を書く。このように読み進めていくうちに、読者はマイナの人生は、実は21日間の船旅の間に完結してしまったのではないか、という幻惑にとらわれる。人間は、誰しも、かけがえのない無垢な少年(少女)時代に様々な人生を見て(経験して)、凝縮した一生を生き、そのセピア色の残光の中で、残りの人生を全うするのではないか、という考え方は、あながち間違いではないのではないだろうか。

本職が詩人であるオンダーチェの文章は、よく彫琢されていて、静謐で本当に美しい。加えて、そのまま映画の脚本になってしまうように、各々のシーンが、またものの見事に切り取られていて、脳裏に忘れ得ぬ像を結ぶのだ。例えば、テオ・アンゲロプロスや、マノエル・ド・オリヴェイラが、この稀有な物語を映画化すれば、と考えただけでもゾクッとする。傑作だ。