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書評:『ヤルタからヒロシマへ: 終戦と冷戦の覇権争い』

書評:『ヤルタからヒロシマへ: 終戦と冷戦の覇権争い』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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マイケル ドブズ (著), 三浦 元博 (翻訳)

本書は、日本の運命を決したヤルタ会談(1945年2月)からポツダム会談(7月)へ、そして原爆投下までに至る第2次世界大戦末期の激動の6カ月を再現した物語である。新しい発見はないが、関係者の証言が寄木細工のように丁寧に積み重ねられており、読者はまるでその場に居合わせたかのような、迫真の臨場感を味わうことができる。まさに、「神は細部に宿る」のである。

第1部は、ヤルタ会談である。病に侵されたルーズヴェルト大統領が、「セイクリッド・カウ(聖牛、大統領専用機)」で、マルタ島から飛び立つシーンから、物語が始まる。向かうはクリミア半島である。会談場所となったヤルタのリヴァディア宮殿(ルーズヴェルトの宿泊地)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世の離宮であった。ホストのスターリンは、ルーズヴェルトを丁重にもてなす。しかし、得る物はしっかり得る。ヤルタでは、ドイツの分割統治や、東欧諸国の戦後処理、ソ連の対日参戦(見返りは北方領土)、国連5大国の拒否権など、戦後世界の大きい枠組みが取りきめられた。なお、スターリンの取り分が大きかったのは、「ドイツ軍のはらわたを抜き取る主たる仕事をした」(チャーチル)からであった。慧眼の外交官、ジョージ・ケナンは、スターリンが取り仕切るヨーロッパの暗い未来について警鐘を鳴らすが、病み衰えていたルーズヴェルトにとっては「それが、私にできる精一杯のことだった」のである。

第2部は、鉄のカーテンである。ルーズヴェルトは、4月に病死し、トルーマンが登場する。それでも、予定通り、4月25日には、サンフランシスコで国連設立会議が開かれる。この日は、偶然にも米ソ両軍がエルベ川で合流した日でもあった。しかし、米英とソ連の溝は確実に深まりつつあった。ポーランド問題(自由選挙を求める米英と、共産党主導政権を樹立したいソ連)を焦点にして、チャーチルはドイツの最終的崩壊から4日後の5月12日にトルーマンに充てた電信で、早くも「鉄のカーテン」に言及している。老いた百戦錬磨の英国貴族は、スターリンに微塵たりとも幻想を抱くことはなかったのである。なお、赤軍の(占領したドイツからの根こそぎの)略奪振りは、凄まじいの一言に尽きる。

第3部は、ポツダム会談から原爆投下までを扱っている。ポツダムに到着したトルーマンは、ベルリンをドライブする。チャーチルは下車して、瓦礫の山と化した(ヒトラーの)帝国首相官邸を歩きまわる。スターリンは素通りする。一切の感傷は、スターリンには無縁なのだ。ポツダム会談の間に、核実験に成功したトルーマンは、俄然、強気に出る。しかし、スターリンは、秘かにその情報を入手していたので、少しもたじろがない。チャーチルは選挙に敗れて、会談途中に姿を消す。そして、ポツダム宣言を無視されたトルーマンは、「ロシアが介入(対日参戦)する前に、日本問題を片付ける」べく、原爆使用を最終決断したのだ。ヒロシマ・ナガサキは、ドレスデン同様、アメリカの力をスターリンに見せつけるための犠牲となったのである。

スターリンが3度にわたる3巨頭会談(最初はテヘラン)で、相対的に有利に駒を進められたのは、インテリジェンス(情報収集・分析)にもたけていたからであった。それに比べ、本書に書かれた日本のインテリジェンス能力のレベルは、目を覆いたくなるようなお粗末さである。ポツダムでスターリンは、日本が終戦の仲介をソ連に頼んできたことを、トルーマンに打ち明ける。もちろん、トルーマンは暗号解読によって、そのことを既に知っていた。先日、「虚妄の三国同盟」を読んで、当時の日本の外交能力(インテリジェンス)のあまりの低劣さに慄然としたが、敗戦から約70年、わが国のインテリジェンス能力は当時に比べて、果たしてどの程度、向上したのだろうか。