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書評:『新・ローマ帝国衰亡史』

書評:『新・ローマ帝国衰亡史』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第33回_新・ローマ帝国衰亡史.png
南川 高志 (著)

5月に出版されたのに、新書なので「薄くていつでも読める」と、ついつい積ん読本になってしまっていた。こんなに面白い本なのに、申し訳ないことをした、という自責の念でいっぱいである。

エドワード・ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は、長年の愛読書の1冊であるが、この『新・ローマ帝国衰亡史』のどこが面白いのか。それは、ローマ帝国を辺境から眺めているからである。ローマ帝国は、地中海の帝国ではない、むしろ、大河と森の帝国であった、と著者は喝破する。アウグストゥスの時代、イタリアの人口700万人に対して、ガリア・ゲルマニア地方の人口は580万人、ドナウ地方の人口は270万人であった。しかし、1世紀の後半から、ローマ市など、古いイタリアではなく属州などの出身の「新しいローマ人」が増え、その150年ほど後、マルクス・アウレリウス帝の時代には、イタリアの人口760万人に対して、ガリア・ゲルマニア地方が900万人、ドナウ地方が400万人に増えていくのである(数字・ファクト・ロジックは強い)。帝国の重心は、地中海から大河と森へと確実に移っていたのである。そして、大河と森の住民であった「ゲルマン人」「ゲルマン民族」は、「固定的で完成された集団とは考えられていない」「非常に流動性の高い集団」と捉えなおす現代の歴史学の地平が語られる。極論すれば、衰亡の最大原因とされる「ゲルマン民族」は、存在しなかったのである。

著者は、広大なローマ帝国を実質化していた3つの要因を、次のように述べる。まずは、軍隊の存在。もっと言えば、ローマ人であるという兵士たちの自己認識。次に、ローマ人であるために相応しい生き方の実践。そして、都市をはじめとする在地の有力者たちとの共犯関係。そして、核となる「ローマ人である」というアイデンティティが、誰かを「排除」するものではなく、むしろ多様な人々を「統合」するイデオロギーとなったことである、と。

この大帝国に衰退の影が忍び寄るのは、4世紀のコンスタンティヌス大帝の時代である。コンスタンティヌスの根拠地は、ガリアであった(そう言えば、カエサルもガリアからスタートした)。そして、コンスタンティヌスが帝国の東方を戦い取るために、ガリアの人材が大量に活用された。同じことが、ユリアヌスによって再現される。ユリアヌスもまた、自ら得たガリアの力を伴って東に向かった。こうして、ガリア(帝国西半)は、2度にわたって、皇帝から置いてゆかれる格好となったのである。東方に精鋭軍団が移動したので、人材も枯渇した。置いてゆかれた西方を支えるのは、もはや外部族出身の「第3の新しいローマ人」をおいて他にはなかった。

コンスタンティヌスに始まった、帝国のキリスト教化は、その一方で、キリスト教徒たる「ローマ人」の排他的な共同体を志向し、異教と共に、第3の新しいローマ人を含む「蛮族」を排斥していく。このように、ローマ人というアイデンティティが変質する中で、ローマ帝国の西半は、378年のアドリアノープルの戦い(ゴート族に大敗。皇帝ウァレンスが死去)から、409年ブリテン島の離反と、諸部族のイベリア半島侵攻まで、わずか30年で崩壊した、というのが著者の見立てである。

読み終えて、心地よい知的興奮が残った。ふと、辻邦生の「背教者ユリアヌス」を再読したくなった。