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書評:『罪人を召し出せ』
ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」
書評:『罪人を召し出せ』
ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。
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『罪人を召し出せ』
ヒラリー マンテル (著), 宇佐川 晶子 (翻訳)
いつかは読まなければいけない、誰しもそういった本のリストを持っているだろう。ヒラリー・マンテルの「ウルフ・ホール」は、この2年ほど、僕の読むべき本リストのトップページに、太字で書き込まれていたのだが、読む機会が訪れないうちに、先に続編を読む羽目になってしまった。それが、本書である。ヘンリー8世の右腕として活躍した稀代の政治家、トマス・クロムウェルの評伝のPart 2である。第1部と第2部に分かれている。
トマスは妻と2人の娘を病気で亡くしている。彼は狩に使うハヤブサに二人の娘の名を付けている。冒頭は、「彼の子供たちが空からおりてくる」という一文で始まる。「あとでヘンリー王は言うだろう。『そのほうの娘たち、今日はよく飛んだな』」。何か得体の知れない胸騒ぎが生じ、読者は一挙に物語の中に取り込まれてしまう。まさに、ヒラリーの力量、恐るべきものがある。実に、巧みだ。
1535年9月、アン・ブーリンは、ヘンリー8世と結婚して、既に正式に王妃となっている。二人の間には娘が生まれている(後のエリザベス1世)。しかし、男の子が生まれないこともあって、早くもヘンリーの目は、女官ジェーン・シーモアに注がれている。また、離婚された前の王妃キャサリンは、娘メアリー(後のメアリー1世)の行く末を心配している。こうした状況の中でも、気丈なアンは、政治に首を突っ込むことを止めない。
テューダー王朝の基盤は、まだ固まっていない。しかも、ヘンリーが英国国教会を設立してローマ教会から離脱したこともあって、イングランドはヨーロッパの中で、ほぼ孤立している。手綱さばきが難しい局面だ。トマスは王の秘書官だが、実際にやっている仕事は、首相のそれに近い。アンは、トマスとも衝突する。第1部の終わりでキャサリンは死ぬが(1536年1月)、それでアンの地位が固まる訳ではない。
第2部は、1536年夏(と言っても5月だが)のアンの処刑までを描く。世継ぎが生まれず、ヘンリーがジェーンに執着している以上、トマスには、王朝を守るためにアンを反逆罪で処刑するしか道がないのだ。「でっちあげ裁判」の一切を、感情を交えずに冷徴に描き切るヒラリーのヴィルトゥオーゾには、舌を巻くしかない。まるで、冷静沈着を絵に描いたようなトマスがヒラリーにそのまま乗り移ったかのようだ。読み終えた時、フリックとナショナルポートレートギャラリーで観たトマスの精悍な横顔が、明確な輪郭を持って脳裏を横切った。ヒラリーの術中にはまって、僕はしばしヘンリーの宮廷にいたのだ。少なくない登場人物は、1人1人が見事に造形されていて、僕の目の前をゆっくりと歩いて行く。表情も読み取れる。まるで、生きているかのようだ。傑作という言葉の他に、形容する言葉が1つも見当たらない。