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書評:『ビスマルク (上・下)』
ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」
書評:『ビスマルク (上・下)』
ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。
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『ビスマルク (上・下)』
ジョナサン スタインバーグ(著)、小原 淳(翻訳)
明治維新の後、新しい国創りのモデルを求めて欧米諸国に歴訪した岩倉使節団が最も感銘を受けたのは、ドイツ帝国宰相ビスマルクとの会見だったと言われている。明治日本のグランドデザイナー大久保利通や、その衣鉢を受け継いだ伊藤博文は、常に日本のビスマルクたらんと心がけた。こうして、ビスマルクの領導したプロイセンが、明治日本のモデルとなったのである。
本書は、そのビスマルクの評伝である。ビスマルクについては、既に数多くの著作が書かれているが、著者スタインバーグは、ビスマルク本人の膨大な著述はもとより、ビスマルクに関わった数多くの同時代人の日記や書簡を証人として出廷させ、この巨大で(身長は優に190cmを超え、体重も軽く120kgを超えていた)複雑な宰相の全貌を、浮かび上がらせようと試みた。
ところで、ビスマルクほど毀誉褒貶の激しい人物は、史上でも稀である。宰相就任後、わずか8年足らずでドイツの統一を成し遂げた不世出の英雄と評価する声がある一方では、議会を軽視し(いわゆる超然主義)、独裁的に統治して、結果的にはヒンデンブルクを介してヒトラーへの道を開いたと酷評する向きさえある。では、スタインバーグの描くビスマルクは、どうか。
巻頭に、ビスマルクの権力と名声が頂点にあった1878年の帝国議会での演説が置かれる。それが、鉄血宰相の名にはまったく相応しくない、冴えない代物なのだ。読者は、意表を突かれる。ビスマルクは、1815年にユンカーの息子として生まれた。母との折り合いは悪かった。議員から外交官に転じ、ロシア大使やフランス大使を歴任したが、宮廷の重鎮には頻繁に書簡を送付し続け、自らの売り込みには余念がなかった。軍制改革(軍の近代化)を希求する陸相ローンは、反対する議会への対抗措置としてビスマルクの首相任命を、国王ヴィルヘルム1世に具申し、1862年、ビスマルクは首相となって鉄血演説を行った。ビスマルクは議会の予算承認が得られないまま、利用可能な資金源をいくつか探し出し、果敢に軍政改革を断行した。その結果は、参謀総長モルトケの才覚にも助けられ、3度の戦争(対デンマーク、対オーストリア、対フランス)において、遺憾なく発揮された。そして、1871年、ドイツの統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立した。普仏戦争の敗北によってアルザス・ロレーヌをドイツに奪われたフランスでは、ドイツに対する復讐が国是のようになった。これに対して、ビスマルクは、オーストリア・ハンガリー帝国やロシア帝国、イタリア等との結びつきを絶妙なバランスで成し遂げ(ビスマルク体制)、フランスの孤立化を図った。内政では、世界で初めて国民皆保険を制度化したことが、よく知られている。1888年、ヴィルヘルム1世が91歳で崩御、後を継いだフリードリヒ3世も在位99日で崩御、29歳のヴィルへルム2世が即位した。73歳のビスマルクは、2年後に職を解かれた。
本書を読んで、まず圧倒されたのは、著者が「至高なる自我」と名付けたビスマルクの激しい気性と大食、そして心気症の組み合わせである。何か意に沿わない出来事が生じる度、それがどんなに些細なことであっても、ビスマルクは病気になり、辞職を仄めかした。その都度、ヴィルヘルム1世は、ビスマルクを宥め賺さねばならなかった。「ビスマルクの下で皇帝であることは困難である」、これは本人が漏らした言葉である。いかなる組織であっても、トップの器量を超える仕事はできない、とはよく言われる言葉であるが、ヴィルヘルム1世は、我慢に我慢を重ねてビスマルクを信任し続けた。本書を読み進む中で、僕だったら少なくとも4~5回はビスマルクを罷免していたに違いないと感じたが、それは取りも直さず、ヴィルヘルム1世の桁外れの底知れない度量を示すものである。だからこそ「19世紀における最も偉大な外交家(ビスマルク)と、最も偉大な戦略家(モルトケ)が同じ君主に仕え」ることができたのであろう。その他、徹頭徹尾議会の子であったヴィントホルストなど、造形に成功している脇役にも事欠かない。19世紀のプロイセン史が、この2冊の中に凝縮されている。
ビスマルクは、近づく人を魅了するユーモアのセンスと温情に溢れた人であり、同時に平然と嘘をつき、冷酷無情に部下を切り捨てる人でもあった。家庭や友人にもさほど恵まれたとは思えない。著者は、その原因を両親との三角関係に求め、それをそのままヴィルヘルム1世夫妻(アウグスタ皇后はビスマルクに厳しかった)とビスマルクの関係に投影しているが、この見解については、様々な見方があり得よう。ビスマルクは柔軟であった。むしろ「手段の選択を行うにあたっては、完璧な不節操さを発揮」した。しかし、強大なプロイセンを創り上げるという1点については、揺るぎがなかったと思われる。政局を動かすのは、「事件だ、ねえ君、事件だよ」(マクミラン)。ビスマルクは、事件をことごとくチェス盤の上で、最大限に活用する悪魔的な術を心得ていた。1873年から96年まで、ドイツは大不況に見舞われた。この時期に反ユダヤ主義が吹き荒れた。経済と社会の閉塞感の関係も、また、興味をそそる。本書を読み終えてなお、ビスマルクの巨躯は薄もやの彼方にある。