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書評:『歴史学の将来』

書評:『歴史学の将来』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第47回_歴史学の将来.png歴史学の将来
ジョン・ルカーチ(著)、近藤 和彦(監修)、村井 章子(翻訳)

碩学の本は、とてつもなく重い。来月、出版予定の歴史をテーマにした拙著の最終校正をしていたが、この本を読んで、一瞬、出版を取り止めようかと思ったほどである。歴史を書くということは、生半可な営為ではないのだ。そのことを、改めて痛いほど思い知らされた。

およそ何事であれ、物事を論じる時には、まず、言葉の定義を明確にしなければならない。ルカーチはオックスフォード英語辞典(OED)を頻繁に引く。最初に、「『正式な記録』という意味での歴史(history)が初めて登場したのは、1482年」であったことが示される。ロレンツォ・イル・マニフィーコの時代だ。そして、「発言の意味は、『いつ』それが言われたのか、『いつ』その人が生きていたのかを知らない限り、理解することはできない」のだ。このような冷徹な認識のもとに、肺腑を一直線に貫くルカーチの透徹した箴言が、次々と繰り出される。

「多くの国では現在でも、学校の歴史の授業はおろか、大学院のゼミさえ、50年前とほとんど同じなのである。」「古代・中世・近代という広く受け入れられている歴史区分より重要かつ本質的なのは、貴族的な時代と民主的な時代の区分(中略)すなわち、少数の人が『つくる』歴史と、多数の人々が『つくる』歴史の区分である。」「『民衆』の発言とされるものは、必ずと言っていいほど民衆の名を騙る発言で、したがって信憑性の問題が生じる。民主的な歴史の問題点は、ここにある。」「歴史家は、文書や『史料』の途方もない量だけではなく、質の問題にも直面する。(現代は)一次史料と二次資料という本質的な区分が意味をなさなくなってきたのだ。」「一般に祖国愛が防衛的であるのに対し、大衆迎合的なナショナリズムは攻撃的である(中略)ナショナリズムとは劣等感と不義の関係を結んだ祖国愛である。」

また、西洋史観の恐らく最良の嫡子であるルカーチの言説は、江戸っ子の啖呵のように、歯切れがいい。ブローデルは間違っていると断言し、ホイジンガの先駆性を評価する。ブルクハルトとホイジンガが過去200年間で最も優れた歴史家なのだ。そしてトクヴィルも。また、トルストイについてのコメントは、司馬遼太郎を思い出す人がいるかもしれない。全ての啖呵が、痛快極まりない。そして、こう言い切るのだ。「よい文章の特徴は、形容詞より動詞に表れる」と。返す言葉がないではないか。

歴史は文学であるというルカーチの認識は、「事実」の4つの制約から始まる。あらゆる事実には意味が存在する。あらゆる事実の意味は、表現や言葉に左右される。使われた言葉には意図がある。「事実」にも歴史がある、500年ほど前まで「事実」は功績を意味していた。もちろん、歴史家と小説家は異なる。「歴史家は、人間による出来事や表現から意味を見出す作業には『例外なく』ある種のモラルがつきまとうことを理解」しなければならない。従って、「歴史の専門家は、自分たちにとっての真の利益のために貢献すべきであり、史料の偽造(およびその解釈)を発見し指摘しなければならない」義務と責任があるのだ。そう、ロレンツォ・ヴァッラのように。「歴史の修正は、特定のイデオロギーの信奉者や日和見主義者に、一時的にもせよ独占させてはならないのである」。

ブルクハルトやホイジンガの嫡子に、西洋史観の限界を指摘するのは、それこそ、野暮というものだろう。ルカーチは決して未来を楽観していない。アメリカの現在の社会について、ルカーチは「考えていることと信じていることとの不一致」を鋭く指摘する。また、「新聞の衰退ひいては消滅は、単に入手可能な情報の減少だけではなく、読書習慣の減退につながる」と警鐘を鳴らす。「自分が生まれる前のことについて無知でいることは、ずっと子供のままでいることだ」。歴史(学)に課せられた使命は、また、とてつもなく重いのだ。