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書評:『遠い鏡』
ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」
書評:『遠い鏡』
ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。
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『遠い鏡』
バーバラ・W・タックマン(著)、徳永 守儀(翻訳)
かつて書物には、クロニクル(年代記)という分野があった。廃れて久しいものがあるが、珍しく本格的なクロニクルに出会った。それが本書である。1,000ページ2段組みの大作ではあるが、これがなかなか面白くて、一気に読ませてしまうのだ。扱う時代は14世紀後半のヨーロッパ、主人公は、ピカルディーのクシーの殿、アンガラン7世(1340~1397)である。この半世紀は、ペストが猖獗を極め、イングランドとフランスが100年戦争を戦い、ローマ教会がローマとアヴィニョンとに分裂し(小シスマ)、コンパニーと呼ばれる傭兵崩れがフランスの村々を荒らし回り、怒った農民(ジャクリー)が猛烈な蜂起を起こし、オスマン朝が勃興してくる、まさに災厄の50年であった。この遠い時代を我らが殿、アンガラン7世はどのように生き抜いたのだろうか。その生き様は、僕たちの人生を映す1つの鏡となるだろう。
16章から成る第1部は、5つの塔をもつクシーの城の描写から始まる。そして、クシー一族の栄華が語られる。1340年、オーストリア公の娘カタリーナを母として、アンガラン7世(以下、クシーと呼ぶ)は生を受けた。クシーが成長した頃、ポアティエの戦いで敗北したフランス王ジャン2世は、イングランドの捕虜となってしまう。クシーはロンドンで人質となるが、その間に何とイングランド王エドワード3世の長女イザベラと結婚する。この結果、クシーは英仏両王に忠誠の義務を負うことになってしまった。クシーは賢明にも、オーストリアに兵を向ける(英仏どちらにも味方しなくていい)。しかし、戦争をしている両国間で二重国籍が長く許されるはずはない。クシーは、義父の死から2ヶ月後、イングランドの領地をすべて放棄して、フランスを選ぶ。1377年のことであった。そして、教皇庁の分裂が始まったことで、第1部は幕を閉じる。
第2部は、11章から成り、賢王シャルル5世の信任を得たクシーが、フランス王家の重鎮として順調に出世を重ねていくところから幕をあける。フランドルの反乱やパリの反乱も鎮圧され、クシーはアンジュー公がナポリ王国を目指してアルプスを越えた後、援助のためイタリア(トスカーナ)に赴く。また、チュニジアにも遠征するが、成果は得られない。シャルル6世が精神異常の兆候を示し始め、フランスに暗い影が差す。ブルゴーニュ派対オルレアン派(アルマニャック派)の争いが始まる。そして、クシーは、ブルゴーニュ公の息子ヌヴェール(後のジャン1世不畏公)の顧問として、ハンガリー王シギスムントの十字軍(対オスマン朝)に参加する。ニコポリスの戦いで敗北して、ヌヴェールと共にバヤズィド1世の捕虜となったクシーは、オスマン朝の首都ブルサで客死するのである。
本書には、フランス王妃バイエルンのイザボー、デュ・ゲクラン、ミラノのヴィスコンティ―族や、有名な傭兵隊長ホークウッド、シエーナのカテリーナなど、興味深い脇役も大勢登場する。アクの強い多くの登場人物の中で、クシーほど冷静かつ合理的で「最も経験豊かで巧みな」騎士は、どこにも見当たらない。また「同時代の最大の年代記作者、ジャン・フロアサールのパトロンとなるよいセンスをもっていた」。クシーの血筋は、ブルボン朝初代のアンリ4世まで受け継がれていくが、クシーが男子を残さなかったため、アンガラン7世は末代となる。クシーの大男爵領は、やがて王室所領に統合されていった。ところで、これだけの波乱万丈の人生を生き抜いた重要人物でありながら、不思議なことに、「彼が描かれた信ずべき肖像がない」のである。その分、想像力が否が応でも掻き立てられる。クシー、アンガラン7世は、果たしてどのような相貌の持ち主だったのだろうか、と。