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書評:『ティムール帝国』

書評:『ティムール帝国』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第66回_ティムール帝国.jpg『ティムール帝国』 川口琢司(著)

ユーラシア大陸の東西を、自ら先頭に立ち何千里にも渡って踏破して、大帝国を築き上げた英傑は、アレクサンドロス大王(イスカンダル)以降、わずかに3名を数えるのみである。バトゥ(ジョチ・ウルス)、フレグ(フレグ・ウルス)そしてティムールである。著者は、その中で「わが国ではその人物像はほとんど知られていない」ティムールを取り上げたのである。

ティムールは、1336年、内紛の続くチャガタイ・ウルスで生まれたが、その一族は零落していた(第1章)。チャガタイ家の姻族となったティムールは、1370年、独力で中央アジアに政権を打ち立てる。ティムールは「チンギス統原理」(チンギス・ハンの男系子孫のみが君主になる資格を持つ)を、傀儡を立てることで上手く活用する(第2章)。その後ティムールは、西征に向う。先ずフレグ・ウルス。続いてキプチャク草原(ジョチ・ウルス)。そして、マフムード (ガズナ朝) にならって北インドへも。遠征は3年、5年、7年としだいに長期のものになっていく。そして、有名なアンカラの戦い(1402年)で、ティムールはオスマン軍を一蹴したのである。7年戦役からサマルカンドに帰還したティムールは、東方(明あるいは北元)に向かって最後の遠征に出立し、1405年オトラルで帰らぬ人となった(第3章)。

第4章では、帝国揺籃の地マー・ワラー・アンナフルが取り上げられる。首都サマルカンドと冬営地であるイラン西北部カラ・バーグ(タブリーズ北方)の間は駅伝で緊密に結ばれていた。またティムールは、首都の近辺に、現世の楽園(バーグと呼ばれる庭園)を数多く整備した(第5章)。第6章ではティムールの死後の内乱の顛末が描かれ、ヘラートに拠る4男シャー・ルフが権力を掌握する。第7章はティムールに愛されたウルグ・ベク(シャー・ルフの長男でシャー・ルフよりサマルカンドの統治を任される)に焦点が当てられる。第8章では、ティムールの伝説化のプロセスが、そして結びとして、ティムール帝国が分裂してウズ・ベクに破れ、バーブルが1526年、インドにムガル帝国(第2次ティムール帝国)を創建するまでが足早に語られる。なお、ウズベキスタンでは、現在、国をあげて、ティムールを顕彰している。

「サマルカンド・ブルー」を冒頭に置いた本書は、建設の人でもあったティムールの実像に迫った労作である。バーグの実態、グーリ・アミール廟内のティムールを囲む墓石の配置の分析や幻の史書「四ウルス」の話は、とりわけ興趣をそそる。またティムール朝文化が、滅亡に向かうヘラート政権の下で頂点に達したという事実は、政治経済のピークと文化のピークの普遍的なタイムラグを示す1つの好例であろう。望蜀を述べれば、長期安定政権を築いたシャー・ルフについての記述が欲しかった。いずれにせよ、ティムールを理解する入門書、概説書としては現在のわが国ではベストの1冊ではないか。