誠ブログは2015年4月6日に「オルタナティブ・ブログ」になりました。
各ブロガーの新規エントリーは「オルタナティブ・ブログ」でご覧ください。

書評:『「音楽の捧げもの」が生まれた晩: バッハとフリードリヒ大王』

書評:『「音楽の捧げもの」が生まれた晩: バッハとフリードリヒ大王』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

当ブログ「ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/deguchiharuaki/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


第70回_「音楽の捧げもの」が生まれた晩.jpg

「音楽の捧げもの」が生まれた晩: バッハとフリードリヒ大王』 
ジェイムズ・R・ゲインズ(著)

クラシックが好きな人間なら、バッハの「音楽の捧げもの」という名曲を少なくとも一度は聞いたことがあるはずだ。この曲は、老バッハがフリードリヒ2世の宮廷を訪ねた時、若き君主が与えた主題にバッハが曲をつけ、献辞をつけて献呈したと言われている。心温まるエピソードのように聞こえるが、著者は、王はバッハを困らせようとして、この主題を与えたのではないかと推論する。しかもその主題を考案したのが王に仕えるバッハの子どもだったとしたら。名曲の誕生に秘められた芸術と権力、そして父と子の葛藤が、1つのドラマを盛り上げる。それが本書なのだ。

本書は13章から成る。第1章で、後期バロックの父バッハとロココ趣味に走る初期啓蒙主義の申し子フリードリヒという太い対立軸が示される。第2章からはバッハとフリードリヒの生涯が交互に語られる。偶数がバッハ家、奇数がホーエンツォレルン家だ。どちらも古い家柄である。バッハはルターの考えのもとに育った。ルターは「音楽は神の秩序が健在である証しだというプラトン的な考え方を支持し、ピュタゴラスを神の僕として復権する方向へ動いたのだ」(4章)。一方、フルートが好きでフランス好みのフリードリヒは軟弱を極度に嫌った父王の殴打のもとで生育する(5章)。あまりの虐待に耐えかねて逃亡を試みたフリードリヒの目の前で、父王は逃亡を助けた王子の側近カッテの首を刎ねる(7章)。これでは性格が破たんしないほうが無理というものだ。一方のバッハは心身ともに健康で、知識欲旺盛な子だくさんの雑食性の音楽家だった。バッハはヴィヴァルディにも注目している。そして、最初の最愛の妻の墓碑銘(エピタフ)として、あの美しい(バッハの)シャコンヌを書いた(8章)。フリードリヒは「自分の考えや意見を悟られぬよう他人をうまく騙しおおせた時」安心を感じるような人間になる。そして28才で即位するのだ。フリードリヒは一生独居のままで終わる(9章)。

子だくさんのバッハだったが、成人した子供は少なかった。ライプツィヒの聖トーマス教会でのカントルの地位もバッハの頑固な性格もあずかって上手くいかなかった。最愛の子どもゴットフリートが死んで、ある意味自由になったバッハは最後の10年を迎える。そして、死の3年前、最後の旅で王にまみえるのだ(10章)。フリードリヒは、マリア・テレジアの即位の機をとらえ、ハプスブルク家に戦争を仕掛ける(11章)。そして12章、音楽が捧げられた夜。フリードリヒはバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E.)を30年も召し抱えていた。大バッハとC.P.E.の間にも、音楽家同士の葛藤がなかった訳ではない。しかもC.P.E.はロココ趣味のギャラント様式の名手だったのだから。かくして2組の父と子の物語はこの宮廷での一夜に凝縮され交錯するのだ。フリードリヒの無理難題に対してバッハはどう応えたのか。それは読者のために伏せておこう。

13章はエピローグ―歴史の評価。著者は、フリードリヒ対バッハという対立の構図に変化はなく結論は出ていないと述べる。しかし、仮面をかぶり、孤独な生活を送る人間がどこにでもいる21世紀においてはフリードリヒの方が優勢であるように見えるとも書き記す。そうだろうか。バッハはフリードリヒがばかにしたような「時代遅れ」だろうか。本書を読むと、フリードリヒの矮小さに比べて、バッハの骨太さが浮かび上がる。この本は2人の対比伝の体裁を取ってはいるが、実体は優れたバッハ伝そのものに他ならないのではないか。ドイツには2人の有名なフリードリヒ2世がいる。ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世とホーエンツォレルン家のフリードリヒ2世である。人物の器量としてはどう考えても雲泥の差があるとしか思えない後者が、何故にわが国では「大王」と呼ばれ、より人口に膾炙しているのか、不思議という他はない。