誠ブログは2015年4月6日に「オルタナティブ・ブログ」になりました。
各ブロガーの新規エントリーは「オルタナティブ・ブログ」でご覧ください。

書評:『Q』

書評:『Q』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

当ブログ「ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/deguchiharuaki/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


第73回.jpg

Q』 
ルーサー・ブリセット(著)

昨年はHHhH、そして今年はQ。ローマ字をタイトルにした本には、このところ傑作が多い。16世紀のヨーロッパ。ローマ教会の腐敗に敢然とルターが立ち上がる。宗教改革という大きな振り子が振れ始めたのだ。しかし、振り子は行き着くところまで振れないと止まれない、という厄介な性格を持っている。ドイツでは、穏健なルターを早くも置き去りにして、農民の指導者トマス・ミュンツァーが、そしてユートピアを目指した再洗礼派のミュンスターの千年王国が燎原の火のごとく燃え盛る。もちろん、ルターとドイツ諸侯は、火消しに回る。Qは、この時代を舞台にしたとてつもなく面白い物語だ。生まれて初めて三銃士やアルセーヌ・ルパンを読んだ時のような血沸き肉躍るワクワク感が、大人をして先へ先へと読み進めさせずにはいられない。

本書は3部構成をとる。第1部は、「貨幣職人(コニアトーレ)」。コニアトーレとはトマス・ミュンツァーのことだ。主人公は1525年フランケンハウゼンでトマス・ミュンツァーと共に戦い敗北する。コヘレト(Q)という情報提供者の手紙に、ドイツ農民軍はまんまと嵌められたのだ。Qはローマ教会の重鎮カラファの手先(カラファの片目)。主人公は、1519年、ルターを慕ってヴィッテンベルクに来たが、ミスター舌鋒(ミュンツァー)の論旨の明快さに惹かれて彼と行動を共にするようになった。敗戦後主人公は一人で落ち延びていく。そして、カラファに意気揚揚と報告書をしたためるQ。

第2部は、「ひとりの神、ひとつの信仰、いちどの洗礼」。これは、ミュンスター王国の硬貨に刻まれたスローガンだ。1538年、主人公はアントウェルペンで、共同体のリーダー、エロイの客となっている。主人公は、エロイに来し方を話し始める。1527年、ヴィッテンベルク大学の友人ケラリウスに、シュトラースブルクに招かれる。そこで、リーンハルト・ヨーストと名乗り妻ウルズラと暮らす。1530年、主人公は井戸から来たゲルトと名を変えてオランダに向かい、再洗礼派の人々と友誼を結んでミュンスターに入る(1534年)。Qは、再洗礼派の人々をミュンスターに終結させて一気に撲滅しようと画策する。そしてミュンスターに潜り込む。ゲルトは隊長となり軍事面を任されるが、ミュンスター市を乗っ取った再洗礼派の指導層(預言者マティスや王となったライデンのヤンなど)は狂気に絡め取られていく。そして、阿鼻叫喚の落城(1535年)。またしても密偵Qの勝利。主人公はエロイ達から、欧州を資金面から動かしているフッガー銀行の活動を教えられる。そして主人公は商人ハンス・グリューエブとなりエロイ達と共にフッガー相手に大勝負を挑む。

第3部は「キリストの恵み」。主人公は、1545年、逃亡中のバーゼルで本の行商人ピエトロ・ベルナに誘われ、出版の都ヴェネツィアに入る。懐には偽造信用状でフッガーから掠め取った大金。フッガーはカラファに依頼してエロイ達を異端審問で葬ったのだ。ヴェネツィアでふとしたことから娼館の経営者となった主人公ルドヴィコは、ユダヤ人の大富豪ミケシュ家と(女家長ベアトリーチェとも)昵懇になる。そして共同で禁書である「キリストの恵み」の商売を始める。1549年教皇が死ぬ。さらに力をつけたカラファの魔の手が伸びてくる。ルドヴィコはティツィアーノという変名で、イタリア各地に再洗礼の説教に出かける。そのことによって30年来の宿敵Qを炙り出そうと試みたのだ。して結末は。主人公とQの対決(1551年)は。そもそもQの正体は。それは読者の楽しみのためにここでは伏せておこう。

この時代は、宗教的には、ローマ教会対ルター派対農民派(ミュンツァー)・再洗礼派の三つ巴戦であった。そして、しばしば前2者は共同戦線を張った。政治的にも、ハプスブルク(カール5世)対フランス(フランソア1世)対ドイツ諸侯(ルター派)という三つ巴。これに、オスマン朝のスレイマン大帝が1枚噛んでいた。そして、イングランドのヘンリー8世も。裏にはフッガー銀行やユダヤ資本(ミケシュ家)がいた。戦争はすべからくカネなのだから。この物語は、カラファ枢機卿(後の頑迷な教皇パウルス4世)が黒幕で、すべて裏で糸を引いていた、と設定している。そしてカラファの駒であるQと多くの名前を持つ主人公が、2人で狂言回しを勤めるのだ。主人公が通り過ぎる(次々と死んでいく)人々は個性豊かによく造形されており、男も女も夫々がとてもチャーミングだ。そして大団円は何と1555年の(アウグスブルクの和議の年)イスタンブール。舞台にも事欠くことはない。蛇足だが、Qは厭世の書ともいわれる旧約聖書のコヘレト書から採られている(コヘレトは伝道師の意味)。作者はボローニャの4人組のペンネーム。巻末に添えられた数々の版画も興趣をそそる。今年上半期に読んだ小説の中では間違いなくトップ3に入るだろう。