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Appleの「iPad」を買うか買わないか、予約したかしないか、というアンケート調査があちこちで行われていますが、結果は様々のようです。私の周辺では事前の「買う!」率は8割を超え、実際に「予約したもんね」率は5割程度と異常な数値。もしかしてApple好き人口密度、高すぎるんでしょうか? かく言う私も既に予約済ですが。
とは言え、iPadをどう使うのかというビジョンは、今のところまったくありません。外出時はMacBookを持ってますし、ささっと手早くメールやWebをチェックしたい時はケータイで十分ですし、ゲームは最近あんまりしませんし... となると、やはり雑誌や電子書籍などを読む?
電子書籍、実を言うと苦手です。PCやケータイで購入したことはもちろんありますが、ジャンルによってはやはり紙の書籍でないと、読んだ気になれない、ということに気づくハメにもなりました。単に慣れの問題なのか、慣れようという気力がわかないのはトシのせい、という問題なのか?
微妙なお年頃なので、ずっと気にしていたところ、先日、そうか、そうだったのか!と納得できる本(紙の)に出会いました。それは文化人類学者、今福龍太氏の『身体としての書物』。
こういうときに限って、現物が部屋のどこかに失踪中のため、やや強引な要約になりますが、書かれているのは以下のようなことです。
・紙の書籍は「身体」を持っており、そのことが読み手の潜在意識に大きな影響を与えている。
・閉じた書物のページを物理的に開くという行為には、知の世界へと潜行していくようなイメージが伴い、また、紙のもろさが物事のはかなさや限界を感じさせる。
・電子データは、紙の書籍とは異なり「身体性」が無い故に、身体性を持つ人間と、知の世界を結ぶ媒介にはなりにくい。
・電子メディアは永続性を感じさせるため、私達が死や消滅を想像する力を奪い、その結果、人は知性に必要とされる謙虚さから遠ざかる。
私自身の解釈が結構入ってしまっているはずなので、気になる方は原典に目を通してみて頂ければ。
私が最も共感したのは「ページを物理的に繰る」という行為の重要性についてでした。本のページをめくるときの、あのワクワクする感じ。あれは、閉じているものを開くという行為であるが故の高揚感だったのでしょう。
ミステリーを読んでいて、「あああ、誰が犯人か、盗み見したい。くううっ」と身もだえしながら我慢するあの快感(?)は、ぴらっとめくって、こそっと鼻面を突っ込める紙の本ならでは、なんですよね。って、今福先生のおっしゃるような「知の世界との結びつき」とは、ほとんど関係なくて申し訳ないですが。
ただ、iPadというツールを使った場合、どうなんだろう、と、密かに期待している部分もあります。
PCやケータイは、自分なりに「本来の用途」が決まっているため、電子書籍は単なる「データ」としか思えません。ですが、何に使って良いものやら、と、予約しておきながら首をひねっている状態のiPadという新しいガジェットならどうでしょう?
もしかしたら、iPad自身に「身体性」を感じ、その結果、新しい形で「本を読む」という意識の連続性が生まれるのではないか...
そんなことを考えている今日この頃なのでした。