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もしも「ブラック・スワン」を見たならこちらもね

もしも「ブラック・スワン」を見たならこちらもね

平沢 薫

映画ライター、編集者。仕事のためと思って始めたハリウッド・ニュース・ウォッチが気づけば趣味のひとつに?

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 もしも大ヒット作「ブラック・スワン」を見たなら、7/2(土)から公開される、1948年製作のバレエ映画の名作「赤い靴」と比べてみるのもおもしろい。

 そもそも「ブラック・スワン(Black Swan)」が「赤い靴(Red Shoes)」を意識しているのは、そのタイトルからも明らか。色彩名と名詞による2単語、「黒い鳥」と「赤い靴」はきれいに対になっている。誰もが認めるバレエ映画の名作である「赤い靴」を意識したタイトルを冠したのは(ダーレン・アロノフスキー監督の自負心の現れでもあろうが、それだけではなく)この物語が「赤い靴」の再起動版であることを宣言するためだろう。

 2作とも物語の骨子は同じだ。ひとりの女性が、自分がずっと目差してきた理想のバレエを踊ろうとするが、それを妨げるものが出現する、という物語。だが、その「妨げるもの」の性質が大きく変化している。

 「赤い靴」では、彼女の理想のバレエの実現を妨げるものは、彼女の外部にある。それは、彼女に恋を捨てて踊りに専念することを強いる興行主と、彼女が興行主に協力することを肯定できない恋人の形をとって出現する。しかもこの2人は、彼女に自分たちのどちらか一方のみを選択しろと迫る。これは1948年の初公開時には「仕事か恋愛か」という古典的二者択一の象徴だっただろう。また、同時に2人の恋人を持つことをよしとしない当時のモラルの反映でもあるだろう。

 一方、「ブラック・スワン」では、彼女の願望の実現を妨げるのは、彼女自身だ。彼女が無意識のうちに自分の内部に作ってしまっている制約が、彼女の理想の踊りの実現を妨げる。彼女がその制約を作った原因は、彼女の才能に嫉妬する実母であり、意識の上で彼女を悩ませるのは彼女と正反対の性格を持つライバルではあるが、根本的な問題は彼女の内部にある。この「妨げるもの」の性質の変化こそが、「再起動版」が創られた理由だろう。
 
 また、障害となる人物たちは、「ブラック・スワン」では同性たち、「赤い靴」では異性たちという形で描かれる。この対照も興味深い。

 もちろんバレエを描く映像のタッチは大きく異なるが、それは時代性の反映だ。「赤い靴」はバレリーナを現実には存在しない世界を出現させるアーティストとして描き、「ブラック・スワン」はバレリーナを特殊なアスリートとして撮る。これは、その時代の観客にとってのリアルさ、説得力に沿ったゆえの違いだろう。その映像の質感の違いもおもしろい。

 そして、この2作の物語はエンディングも同じ。どちらのヒロインも、クライマックスでその苦悩が極限に達したとき、その身体が、彼女自身の意識の枠を破って暴走し、究極のバレエを踊り出すのだ。この1点において、どちらの映画も芸術至上主義、創造至上主義は貫かれる。

 しかし、この同じエンディングの中で、少々気になる違いがある。この最後の究極の踊りは、「赤い靴」では誰の目にも触れないが、「ブラック・スワン」では舞台の上で披露され満場の喝采を浴びる。この違いを、1948年と2010年の違いと見るか、マイケル・パウエル監督とアロノフスキー監督の資質の違いと見るか。2作を見比べた後には、そんな問いを考察する楽しみも待っている。
 

「赤い靴 デジタルリマスター・エディション」公式サイト
http://www.red-shoes.jpn.com/
 
「ブラック・スワン」公式サイト
http://movies2.foxjapan.com/blackswan/