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ブランドプロデューサー 加藤信之氏インタビュー:   百戦錬磨のブランドプロデューサーが思う知ること、売ること、伝えること

ブランドプロデューサー 加藤信之氏インタビュー:   百戦錬磨のブランドプロデューサーが思う知ること、売ること、伝えること

小島 れいみ

1989年生まれ。株式会社ネットワークコミュニケーションズPRコンサルタント。異文化好きの浅草女子です。

当ブログ「PRアソシエイトが行く!」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/kreimi/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


IMGP0953.JPGプロフィール 
加藤信之
1955年生まれ。埼玉県出身。HANAE MORIブランドの核になる『ひよしや』での勤務を皮切りに、国内外の有名ブランドのプロデュースに携わる。1996年に有限会社マルムを設立。バンタンキャリアスクールのファッションビジネス講師としても活動中。

メカオタクだったという子供時代から一転してオートクチュールのデザイナーへ、さらにはショップデザインから生産管理までを経験し、国内外の有名ブランドのプロデュースを手掛ける加藤信之氏。長年に渡り服飾系専門学校でも講師を務め、若手の育成にも関わる加藤氏の異例のキャリアやこれまでの経験について伺うと同時に、モノづくりに必要な要素について語って頂きました。


デザイナーからブランドプロデューサーへ

常にやったことのない仕事をしたかった

―まずはご自身のバックグラウンドについて教えて頂けますか?

ファッション業界での自分の経歴は、デザイナーからだったんです。パリでオートクチュールをやっている会社で、デザイナーとしてスタートしました。なのでもともとは、絵を書いてパターンを引いて、裁断してミシンで縫製し服を完成させるまでが仕事だったんです。

―デザイナーからのスタートだったとは知りませんでした。

でも20歳から30歳までは好きな事をしようと思ってやり始めましたし、常にやったことのない仕事をしたかったので、デザイナーの次は企画に転職しました。30歳までの10年間は修業という意識で、ブランドのMDやデザインも担当したりしてましたね。それ以降はパリへ行ったり、ミラノへ行ったりしていたんですけど、ある時百貨店の出資でアパレルをやらないかという誘いがあって、ブランドビジネスを始めることになったんです。全くゼロから会社を立ち上げるので、デザイナーに、パタンナー、生産管理のプロを見つけたりして、ブランド作りをしていくんですけど、一通りのことを経験していたので、そこでこれまでの全てのキャリアが生きたんですよ。

―つまりそれが、全てを管理すると言う意味で現在のプロデュース業に繋がったわけですよね?

そういうことになりますよね。その内に百貨店自体の仕事も手伝うことになって、結果的にMDとかバイヤーとか、全く経験もないのにショップの改装を任されたこともありました。

―内装も全てということですか?

そう、デザインとか内装の企画ですね。当時はすごいお金を掛けてショップも作られていて、日本空間デザイン協会という所の、ショップディレクターとして当時非常に有名だった人物を直接紹介されたり、逆に彼から仕事を頼まれたこともありました。まあ、今考えれば有り難かったんですけど、その時は、彼らが使っている言葉もわからなくて。(笑)

―例えばどのような言葉ですか?

例えば「壁をふかす」とか、「柱をふかす」とかって言うんです。

―どういう意味なんですか?

むき出しの壁とか柱をデザインで飾っていくことなんですけど、さすがにまずいと思って勉強しました。なので、絵を書いてからショップを実際に作るまで、中間の生産管理、プロモーション含め16年間で全ての仕事を経験をしたんです。でもそれが出来てしまったことで、百貨店時代にはライバル百貨店のブランドを卸せだとか無理難題を振られることもあったんですよ。結果的に取引は成立させちゃったんですけど...百貨店のアパレルメーカーが隣の百貨店の商品を卸すなんてことは、多分歴史始まって以来でしたし、今では考えられないと思います。展示会とかも修羅場で、それはそれで見ていて面白かったです。(笑)

―(笑)ライバル同士が集まるわけですから、その展開は当たり前ですよね。

36歳から40歳まではヨーロッパ生産のアパレルも担当していました。ヨーロッパに行って企画をしたり、輸入した商品を日本で売ったりしている間に向こうでの人脈も広がりましたし、そこでブランドを見つけて育てたりだとか、こっちで考えているブランドを輸出していくだとか、グローバルなブランドビジネスも始めたんです。それで、当時商社では自分のブランドを持って辞めるというのが流行っていたので、僕も40歳になってから独立したんですけど、初めの内は利益の出し方とか目標とか、何の為に会社を作るのかを考えていなかったので、失敗も多かったですよ。

―失敗とはつまりどういったことですか?

相手も戦略がないし、こっちも出たとこ勝負でやっていたので、仕事のフレームを作ることの大切さを改めて学んだんです。それにアメリカのブランドなんかも担当していたんですけど、色々な段取りがやっと終わったという時に9.11でその会社がなくなってしまったり、その後少しずつ回復してきたかなっていう時に3.11が起きたんですよ。僕たちは福島の相馬と二本松にほとんどの工場を持っていたんですけど、僕は前々からの予定で直後にヨーロッパに飛ばなくちゃいけなかったし、現地と連絡はつかないしで、全ての機能が止まった2ヶ月でした。

―そんなご経験をされていたとは知りませんでした。

それに、汚染の可能性があるってことで、誰でも知っているような名立たるブランドから仕上がっていた服の出荷を拒否されたりもしました。もちろん、日本でも名の通ったブランドのデザイナーには「作って下さい。」という人も多かったですし、昔からお世話になっているDUVETICA(デュベティカ)っていうブランドも「大丈夫ですから。」と言ってくれたんです。そういう会社には本当に救われましたね。(DUVETICAは2002年にイタリアで旗揚げされたダウン専門ブランドで、2003年に日本で先行デビュー。青山のショップduvetica aoyama store tokyoには最高級素材を使用したカラフルなダウンが並び、建築家の安藤忠雄氏とのコラボレーションによるショップデザインも話題になっている。)


ブランドを見極める

人の顔色を窺うような商売は当たらない

―未だに震災の影響は残っているようですが、ファッション業界全体の動向はどうですか?

盛り上がってきていると思いますよ。百貨店は改装するし、ユニクロは世界中に売りまくるし、ファストファッションも絶好調だし、小さくてもブランドを始めるっていう若手のデザイナーもボンボン出てきているし。

―加藤さんのアンテナに引っかかるというか、今気になる若手はいますか?

どこかにサンプルがあるから、大体みんな平均的なんですけど、人の顔色を窺ったような商売は当たらないんですよね。売る側の人間をその気にさせるようなモノは、なかなか少ないと思います。でもこの間ある展示会で紹介された人は、一切ミシンを使わずに、全部を手で縫ってドクターバックを作るっていう人だったんですけど、「自分にはこれしかないんですよ!」みたいなその勢いがすごくて・・・こいつは世に出さないとマズイなって思わせるんですよ(笑)今は大企業も小さい会社も同じようにビジネスができる時代だし、そういう人が出てきやすい環境にあるのは確かだと思います。

―ブランドが成功するかどうかはどのように見極めていらっしゃるのですか?

流通経路をどうするかじゃないですかね。今の時代ネットとかスーパーとか百貨店とか、多くのチャネルがある中で、どういう順番を経て、どこへ落とすか、ゴールを設定しているかが一番大事だと思います。あと、「利益の質」と良く言いますけど、質よく利益を出して欲しいんです。この間も、'1000円でデニムを売ることで、製造に関わる多くの人間が泣いている'っていうギャルソンの川久保さんの言葉がありました。

―その考え方には私も同感ですね。

確かに、安く縫製するしか利益を出す方法がないという国も世の中には沢山あるけれど、関わった人全員に幸せになってもらいたいと思っています。ただ、今はモノを作るのに値段から入ることがすごく多いんですよね。「これを6800円で作って下さい。」とかって。モノを定価で買う人が2割を切っている中で、もちろんそこに利益設定があるわけだから、ショップディレクターなんかがもっと広い価値観でモノを組み立てていかないと、いずれ「これって値段と合わないよね。」っていう事態が起こるんですよ。


情報の集め方、トレンドの感じ方

命が掛かっている時にこそ色々な事がわかる

―外国でインスピレーションを受けることも多いですか?

かなり多いですね。例えば海外のカバン屋で、材料だけ売って、作る場をお客さんに提供するっていうアイディアを思い付いたんですよ。高くて買えない人のために、材料だけ提供するから自分で縫えって。(笑)材料もすごくキレイにラッピングして売るんですけど、そのアイディアはミラノで閃きました。

―その売り方は面白いですね。実現はしているのですか?

はい、ミラノで実現してます。(笑)販売スタッフが常時2人いるので指導もしてくれますよ。この間も日本からテレビの取材が行ったみたいです。あと、僕はヨーロッパに数ヶ月滞在する時でも1週間ごとしかホテルを予約しないんです。明日ミラノに帰るのにホテルがないかもしれないってハラハラしたりとか、出張先で訳の分からない場所に行き着いたりだとか楽しいじゃないですか。

―1つの仕事をずっとやり続けるのはつまらないとおっしゃっていましたが、常に刺激を求める生き方をされているのですね。

命が掛かっている時にこそ色々な事がわかるし、便利を拒否すると成長があるんです。だからそういった意味では今の若い人たちは何をするにもすごく慎重ですよ。チケットからホテルから、何から何まで調べ上げてから海外に行くんですよね。(笑)

ー消費者の動きやトレンドは、普段どのように情報収集を?

ひたすら歩きますね。あとは色々な年代と関わります。僕は57歳なので年上の友達はあまり多くはないんですけど、下は10代まで付き合います。特に20代後半の女性たちの話なんか聞いていると、素晴らしく結婚願望があるのに、素晴らしくそこからは遠いスタンスにいたりするんですよね。すごく高価なものを買っていながら、変なキャラクター物を買ったり。それでいてしっかりとした人脈も持っているし・・・そういう人達からマーケットインの発想が出てくる。それに彼女達の話を聞いているとお金の使い方もわかってくる。あとは専門学校の講師をやっていることで、普通の50代なら絶対に知り合わないような子たちとの出会いも多いですよね。

アナログのコミュ二ティを潤滑に運ぶためにSNSを使って再整理する

―SNSも一気に普及しましたがファッション業界への影響はあったのでしょうか?
あまりないですね。Facebookなんかはもっと使い方があると思っていて、今はあるアプリの開発中なんですけど・・・

―本当に何でもやられているんですね。(笑)

でも面白い使い方をしている所もあって、とあるショップだと、そのショップのFacebookページに新入荷商品がアップされて、商品を買った人とかが勝手に盛り上がってたりするんですよ。今日入荷しましたってアップすると、「明日行くから置いておいてね」とかいう変なやり取りがあって、ネットの中だけで完売してしまっていたりして。(笑)

―それでも重きは実店舗に置かれているわけですよね?

そう。Facebookではただ盛り上がるだけなんですけど、いつの間にか客とスタッフが割り勘で飲み会しちゃってたり。(笑)誰もお客さんとして来いとは言っていないし、店長や社長の指示でもないのに、結果として売り上げは上がっている。そんな店は実際に買いに行っても楽しいんですよ。

―結局は人との繋がりに落ち着くんですね。

アナログのツールとして使っているだけなんですよね。アナログのコミュ二ティを潤滑に運ぶためにSNSを使って再整理している。だから今はその流れを逆に持っていくようなビジネスを企画しているところでもあるんです。ただ、そういう流れを理解する経営層が少ないから難しいですけどね。

―特にファッション業界はそういった流れに疎いと聞きますね。

訳がわからないから別に良いです、っていう雰囲気を出すんですけど、大きな間違いですよね。インフラが変化すれば物流も変化していくことをもっと理解していくべきだと思います。

―ご自身はそういった知識をどこで培われたのですか?

実は親も兄貴も電機系統だったので、家には訳のわからない電機製品が色々とあってメカオタクだったんです。中学校の時にはアマチュア無線の国家試験にも合格しました。だから今でも、形とか性能が良いとかで、デジカメとかPCを年に何回も買うんですけど、実際に使ってみてダメだとすぐに変えちゃうんです。そこにすごくこだわりがあって、逆に気に入ったノートパソコンとかは、同じモノを4台買ったことがありますね。昔はお金もなくて買えなかったので、こうなったのは復讐なんです。(笑)

―ストイックにこだわっていらっしゃるのですね。

IT機器には常に完璧な状態で動いていて欲しいんです。どうでも良いモノと、ちゃんとしていて欲しいモノのギャップが激しくて。


「売る」ということ

情報量が多いので皆が売りやすくなって、プレゼンの達人みたいになっちゃったんです

―電機機器に囲まれた環境からどうしてファッションの世界へ?

作るということが好きだったんですけど、洋服は作る過程がアナログなんですよね。この線が曲がってるとか、この縫い目がどうとか。だから面白かったんです。ただ、仕事を辞めたら絶対にド田舎でプラモデル屋をやりたいと思ってます。小学生の頃から、内緒で買ってきたプラモデルを布団を被って作ってるような子で、対人関係はゼロだったんで。

―とうことは、今とは真逆の生活だったんですね。

人と口を利くのが大嫌いだったんですよ。だから30歳から40歳まで、商品説明とか企画説明で本当に苦労をしたんですけど、それでもなぜか表に出るようになってしまったのは、人と違うアプローチが出来たからですね。色々な経験をしていたし自分は洋服を作ることもできるから、1つの洋服を紹介するのに、トレンド分析やデザイナーの想いも説明できるし、洋服に使われている糸とか生地、縫いだったり、工場だったりパターンの話まで出来る。そうすると、(提供出来る)情報量が多いので、皆が売りやすくなって、結果的にモノは売れて行くし、僕はプレゼンの達人みたいになっちゃったんですよ。あと、モノを作り出すクリエイターは自分のツボをえぐられたり、一番嬉しい所を褒められたりすると、比較的短時間で仲良くなれたりしますよ。

―(笑)すぐに仲良くなるというのも、ある意味ではご自身の技術ですよね?

何十年間も色々な事をやってきたから、それぞれの人の想いがすぐに理解出来てしまうんでしょうね。  なので誰の文句も言わないですし。イタリアでもふらっと入ったカバン屋で突然店番を頼まれたこともあって、国籍のわからない様なお客さんまで来るし、結局1時間ぐらい居たんですけど何十万か売ったんですよ(笑)なぜかそういう事を頼まれちゃうんですよね。

好きであればあるほど売れる可能性も高くなる

ショップのディレクションをする時も、いつも細かく説明するようにしているんです。売り上げが悪いといったら、どう売り上げが悪いのか、どんな解決方法があるのかを提示して、あとは自分の店に合う方法を選んで下さいって言いますね。コンサルティングで良くあるような「こうやって下さいね。」じゃなくて、いくつか出された方法を自分なりに解釈して、答えを見つけた時に初めて通用するやり方がわかるし、自信にもなるじゃないですか。デザイナーも、よく売れないとかって言うんですけど、そもそも売ろうとする意志がないことが多いんですよ。売れるモノを作る必要はないんですけど、自分がそのモノを好きであればあるほどそれがキャラクターとか差別化に繋がって、売れる可能性も高くなるんです。だから僕たちは店内に水だって流しますし、買った洋服を着て行く場所がないから売った先を考えろって言ったら、毎月のように客と飲み会をするようになった店もありますからね。(笑)場所まで提供するんです。

―場を提供するというのは確かに重要なことですよね。

そうすれば、そこに何か文化が生まれるじゃないですか。売ったら、使わせるんです。特に若いヤツにはとことん使わせないと。

―ライフスタイル全体をコーディネートするということですね。

それが洋服屋の使命だと思います。そうするとその人自体が格好良くなりますからね。

―加藤さんご自身のゴールは何かあるのでしょうか?

面白がって仕事をすることですかね。サラリーマン時代とか、会社を始めた直後なんかは死ぬほど働いてましたけど、今は結構本音で仕事するようになりました。ここ10年は仕事を冷静に分析していて、自分が関わった仕事に関しては直ぐにフレームを作ってしまって、自分がいなくても廻るようにしちゃうんです。そうするようにしてから人間らしくなったし、色々なモノが上手く廻って来ていますね。でも最終的には、自分も楽しくなって、皆が幸せになるような仕事が出来ればそれで良いと思ってますよ。

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文房具には特にこだわるという加藤氏。
レオパード柄のボールペンは特注品。