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道徳と愛国心
マイク丹治の「グローバル・アイ」
道徳と愛国心
セールスジャパンという、中小企業・ベンチャー企業向けの営業代行・販路開拓の会社で会長を務める傍ら、いくつかの会社の顧問に就任しており、更に政策シンクタンク・構想日本で政策提言を行っています。
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道徳の授業を学校教育で本当に実施するようだ。確かに、私が子供のころは道徳の授業があった。何を教えていたのか、良く覚えていないが。
例えば、目上の人を敬えとか、人と接するときは礼儀をもってとか、一人では生きていけない人間社会の中で、守るべきルールがあるのは事実だし、オヤジの戯言と言われるのを覚悟で言えば、年を経るごとにこのような社会常識が守られなくなってきているのも間違いない。
だが、道徳とは、そもそも学校で教えるべきものなのか?何を大事に思うかは、それぞれの人の内心の問題ではないのか?何をもってわが国国民の最低限の共通の常識とするのか?確かに道徳教育は戦後にあったものではあるが、憲法19条の良心の自由との関係をどう考えるのか?
文部科学省の委員会か何かが考えるのが、わが国の標準になり得るのか?教える側の先生の信条と異なったらどうするのか?日の丸・君が代でもあれだけの訴訟が起きていることを考えると、このようなものを国家で統一して学校で教えようというのは本当に適切なのか?
道徳などというものは、そもそも家庭や社会で暮らすことで必然的に身についていくものなのではないか?そのようなものまで学校のカリキュラムに乗せることで、結果として家庭や社会がその本来の役割を果たせず、より崩壊していく方向に向かうのではないか?
安全保障戦略に愛国心が入るらしい。これはもっと困った話かもしれない。確かに日本に暮らす以上は、日本に対する愛国心は欲しいところだ。でも、日本という国が嫌いだからといって、日本に住むのはダメと言えるのか?
愛国心とは、一体何を国民に求めるのか?そもそも愛国心なるものは、道徳以上に外部に表現されないもので、それこそ良心の自由に関わるものだ。確かに、日本人でありながら、日本の例えば安全保障に関して、他国の利益を優先する発言をすれば、色々と反対は出るだろう。
でも、どのような意見を持つかは、それこそ個々人の自由だ。日本人なら、或いは日本に住んでいれば、日本を国として愛さなくてはならないなどという国は、世界中探しても北朝鮮くらいではないか?
どうも現政権は、戦前の暗い時代に戻って、国家が全知全能の神であり、だから愚民たちはこの決めたことに従うべきだ、政府はその施策に関する情報を、国民になど知らせる必要はない、と思っているとしか感じられないのは、私だけだろうか?
国家は、国民のものであり、だからこそ国会議員も選挙で選ばれ、そこから内閣総理大臣が選ばれるのだ。この当たり前の現実を理解せず、事実上の内閣専制政治に陥るとすれば、これ以上危険なことはない。