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規格化のジレンマーCommon Senseの欠如
マイク丹治の「グローバル・アイ」
規格化のジレンマーCommon Senseの欠如
セールスジャパンという、中小企業・ベンチャー企業向けの営業代行・販路開拓の会社で会長を務める傍ら、いくつかの会社の顧問に就任しており、更に政策シンクタンク・構想日本で政策提言を行っています。
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大学を出て最初に勤めた銀行の同期が亡くなった。今日がお通夜で明日が告別式だが、それにしても若くして亡くなる仲間が多い。やはり破綻の前夜からの激務とストレスが原因なのだろうと思う。
部活の強制の本質
今日も、ちょっとドタバタしているので、お題を中心に行きたい。「部活の強制」がそれだ。と言っても、私は年齢的にもこのようなことを直接経験したことはないし、いわゆる受験校出身だったのでそんな風習はなかったし、自分自身は自ら部活に参加していたので、強制されたこともない。
また、部活の強制と言っても、多分意味が色々とあるのだろうと思う。一つは、そもそも生徒は全員部活に参加すべきだというもの。これは恐らく偏差値至上主義に対して、勉強一辺倒ではいけないという考え方のもとに出てきたのではないか?
現実に、以前神奈川県で多少なりとも政治活動的なことをしていた際、川崎の活動をしている方々から、「全員が部活をするという規則が中学校にあるが、これは行き過ぎではないか?」との発言を聞いたことがある。
健全な青少年を育成するために、勉強だけでなく運動や文化活動もしてほしいという考え方は理解できるが、誰もが限られた部活のどれかに所属すべきという規則にしてしまうところが、わが国の面白いところだ。
企業活動の目的?
ちょうど先週のエコノミストに面白い記事が載っていた。世界の国別に「企業の最大の責務は収益を上げること」というミルトン・フリードマンの考え方への賛同の度合いを調べたところ、賛成度が一番高いのはUAEで80%以上、次が日本で70%強、そのあとインド、韓国、シンガポールと続いて、本国のアメリカは56%、イギリスは43%、更に中国は40%を切るという結果が出ている。
確かにCSRという考え方が欧米で強まってきていることは事実だが、一方で常に株主よりもステイクホルダーという議論が通常のわが国で上記のような結果なのは、示唆的だ。いろいろと調整すべきところはあるが、「企業の本来の目的は収益」という概念が、社会通念としては規格化されているのだろうと感じる。
規格化とCommon Senseの欠如
部活の強制も同じ。勉強以外も大事、だから部活は全員へ、何でもルールとして規格化することで、目的が達成したかのような錯覚に陥る、これがわが国の現状を生んでいるのではないか?その根底には、社会で生きていく上での成文化されたものではないルールというか、Common Senseの欠如があるのではないか、と思う昨今だ。
世界中に無知な人たちはいるし、無礼な人たちもいる。だが、そもそも儒教の精神に富み、教育も世界一行き届いているはずのわが国の国民が、平気で満員でもない電車で人を押しのけるのは何故か?何故車内で携帯を使わないなどという当たり前のことを、再三にわたって大きなボリュームでアナウンスするのか、すべてこのCommon Sense不在の中での規格化に表すことが出来ると思う。
世界中が、先進国における議会制民主主義の崩壊・社会格差の拡大と財政の破たん、BRICSに代表される急成長国の登場と世界の経済構造の変化、更にネット社会の普及をきっかけとしたイスラム社会の大変革などの激変に見舞われている今、改めて人類として当たり前のCommon Senseに基づいた行動がわが国にも問われるのではと考える。規格化に安住してこれに欠けた国家が激動の世界で信頼を得ることはあり得ない。
もう一つの強制
ところでもう一つの部活の強制は、部活の中における指導者の練習などに関する厳しい指導などと思われる。私は、生徒が中心の甘い部活だったので、このような経験はない。一方で、高校野球などのスポーツの厳しい世界を垣間見ると、厳しい訓練が不可欠なところもあるのだろうと思う。ただ、一方でそれが自分の意志ではなく参加させられている部活でのもので、且つ通常の体力などを想定してその耐えうる範囲を超えているとしたら、これは問題になり得ると言わざるを得ない。
この「程度問題」は、なかなか簡単に結論を出せるものではないと考えるが、少なくとも部活=厳しい訓練というステレオタイプな規格化が、そのような強制を呼んでいる可能性は否定できないのではないか?