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なんでも便利だけで良いのか?
マイク丹治の「グローバル・アイ」
なんでも便利だけで良いのか?
セールスジャパンという、中小企業・ベンチャー企業向けの営業代行・販路開拓の会社で会長を務める傍ら、いくつかの会社の顧問に就任しており、更に政策シンクタンク・構想日本で政策提言を行っています。
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私は、新しいもの好きだが、機械には弱く、従って大体最新の機器になると2世代くらい遅れての購入になる。例えば、あの丸い持ち運びできるCDのプレーヤーを購入したのは、既にミニディスクが出て久しい時だったし、DVDプレーヤーを買ったのは、ついにツタヤでVHSがなくなりかけた時だった。
だから余計に、次々と導入される新しい技術に抵抗を感じるのだろうと思うのだが、それにしても科学技術の進歩が必要なことは認めるものの、ここまで何でも便利だけを追い求めて良いのか?人類はどこへ向かっているのか?という疑問が湧いてくる。
今朝も、テレビで縦列駐車を自ら行う自動車が紹介されていた。確かに便利だなと思う。だが、便利になればなるほど、実はそれを使う人間は劣化するということ。だから、何か起きたときに、対応する能力がなくなってきているのは事実だ。
大学のレポートや論文のコピペの問題が巷を賑わして久しいが、これはある意味楽をしよう、或いはよい例を活用して高い評価を受けようという動機によると推察するが、情報が容易に手に入ることで結果としてますます考える能力を人類から奪っているとも言える。これは、現実に仕事の世界でも、大学教育の世界でも明確に認識できる現象だ。
私は、銀行の出身で、大昔に銀行に入行したときは、もちろんコンピュータシステムは導入されていたが、伝票は手で記載し、札は手で数え、伝票集計はソロバンを入れていた。また、当時の長信銀で、お預かりするのは預金ではなく債券だったため、お渡しする資料も一定の計算を要するもので、コンピュータがダウンした際など、手計算で作成してお渡しする必要があった。
つまり、コンピュータがなくても、業務に対応できる体制と基礎知識を皆が有していたわけである。しかし、今はすべてがシステム対応で、多分科目の仕訳を含めて、窓口の職員は業務の流れを、機械の中で行われていることを含めて、殆ど認識していないだろう。
銀行時代に、ある取引の伝票を役職として照査していたら、明らかに貸借がバランスしていない記載があり、担当を呼んだところ、マニュアルに記載してある通りに処理したと言う。すぐにマニュアルを見たところ、確かにその通りで、要はマニュアルが間違っていたのだが、取引では貸借は必ずバランスする、また特殊な取引は通常使わない勘定科目が立つので、そのために別の伝票を用意する必要があるなど、ある意味で基本的な経理処理の流れを理解していないと、とっさの場合に対応できない。
特に米国で多いことだが、航空会社のカウンターやホテルのレセプションで、何か予約の間違いなどあったときに、窓口の人間が全く対応できずイライラした経験を持つ人は多いのではないだろうか?これもまたマニュアル化の結果であり、人は間違えることを前提としたマニュアル化が、益々人を劣化させているのだと感じる。
車の窓が自動で開閉するようになって久しいし、最近はセンサーで止まるとか、様々な機能が付加されてきているが、それ自体は便利で良いとしても、もし故障したらどうするのか?それから、あまりに機械の機能に依存すると、自分で運転に注意をしなくなるリスクはどう考えるのか?
人はますます、歩かずに車に乗り、しかも車が自分で動いてくれて自分は乗っているだけ、情報はすべてコンピュータで得られて、コミュニケーションもメール、どんどん人類は、類人猿から進化した時代からかけ離れた生き物に変わっていく。そのうち、足が劣化し、口も劣化し、指と頭だけが異様に発達した生き物が登場するのか?
便利さだけを追い求めるのではなく、自分の手や足、目や頭を使って考え行動する、人類としての最大の特徴をより生かしていくような進化の仕方はないのか?