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原発は不要?必要?
マイク丹治の「グローバル・アイ」
原発は不要?必要?
セールスジャパンという、中小企業・ベンチャー企業向けの営業代行・販路開拓の会社で会長を務める傍ら、いくつかの会社の顧問に就任しており、更に政策シンクタンク・構想日本で政策提言を行っています。
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今週はお題を少し。既に私の考え方は以前のブログで示していますが。私は、原発は止めるべきだと考えます。但し、もちろん生活や産業のニーズもあるので、そのあたりを念頭に置きつつ、一方で安全性も検証して、スケジュールを決めて止めていくということです。
理由は簡単です。アメリカの海洋石油リグと同様、人類にはまだ巨大技術をきちんとコントロールするだけの力がないからです。どんなにリスクを検討しても、人知を超えた事象が起こるのが自然の力で、とすれば何か起きた時に対応のしようのないようなもの(今わが国はまさにその状態です。福島で一体何が起きているか分かっている人は一人もいません)は、利用してはいけないと考えます。
以前の私のブログにもコメントを頂戴し、その方は「自分は原子力推進派だ、リスクをきちんと理解し覚悟した上で、より快適な暮らしを求めたい」とのお考えだと伺いました。確かにリスクを認識して、それを取るという考え方はあり得ると思います。ただ、原発の恐ろしいのは、それが一地域だけのリスクに止まらないという点です。
多分そんなことは起きないと思いますが、大げさに言えば福島が高濃度の放射能をダダ漏れにしていて、東北だけでなく関東など近辺がすべて汚染するとか、或いは世界中に海洋汚染が広がるとかいうことだって、可能性がゼロではありません。その意味では、この問題は一つの地域どころか、国レベルで判断すべき限界も超えているのかもしれません。
なお、余談ですが、原発問題に対して東電の責任だけが喧伝されているように見えるのですが、これにも違和感があります。もちろん個々の対応などで批判される部分もあるのだろうと思いますが、現実に現場で命をかけて努力しているのは東電やその下請けの皆さんであって、責任を押し付けている政府や議員は誰一人リスクを負っていません。
原子力発電は巨大プロジェクトであり、個別には個々の電力会社が持っていると行っても、その推進や建設、更にはリスク管理などは、国が責任を負っていると考えます。原発建設に関して、「安全です」と言ってきたのは、政府なのですから。内閣としても、国会としても、国難に対して全く何も出来ていないのは間違いのない事実ですから、存在意義はゼロどころかマイナスです。この際皆で福島の原発に順番に入って、実態をきちんと把握し報告するくらいのことをやったらどうでしょうか?
それよりも私が怖いと思うのは、原発問題が起きても、結局今までのライフスタイルを変えようという動きが目立たないことです。復興が大事、電力が不足する、と言いながら、相変わらず従来型の元に戻す(立地を高台にするとかはありますが)復興と、既往の使用電力量の既得権化の中で議論が行われていることです。
これも既に述べましたが、太陽光はシリコンパネルを使う限りはその製造に電力を大量に使います。その上、住宅の上にパネルを敷き詰めれば、地震に対する強度も落ちます。メタンハイドレートは、開発コストもバカになりませんし、二酸化炭素をどう防ぐかという問題もあります。
もちろん、科学技術を否定するつもりはないですし、これを活用してより実効性が高く課題が克服されたものが出てくるのだろうと思いますが、何故皆が同じ方向に向くのか、もう少し冷静であるべきではないかと考えるのです。
どんな形を取るうと、それが化石燃料であれ、自然エネルギーであれ、地球を取り巻く環境への影響はゼロではありません。それを如何にうまく使い、一方で使ったものを地球のバランスを崩さないように地球に返していくか、というのが人類という生き物の持続可能性を確保する上で極めて重要だと思います。
考えてみてください。わずか4千年程度の歴史を持つ文明後の人類が、その歴史の中でわずか50年でどれだけのエネルギーや自然環境を使い、その生きるベースである地球を蝕んできたか?産業革命は革新的な変化を人類の生活にもたらしましたが、本当の意味で人類の生活が相当程度の地域に亘るまで革新的に変化したのは、せいぜい50年、或いはそれ以下です。
それで既に人口爆発も念頭に置くと、食糧にしても水にしてもエネルギーにしても、枯渇が近い将来に予測されている、これって要は人類は自分たちの世代のことしか考えていない大バカ者ということではないですか?
確かに、遠い将来金星か火星にロケットを打ち込んで、地球に起きた生命の起源の環境と同じ環境を作り出すというプロジェクトはアメリカで検討されているようですが、これとて何億年もかかる話です。せっかく何かの偶然で生まれた人類が、これからも当面地球という唯一生存可能な星で生き延びるためには、もう少し先のことも考えて行動する必要があります。
ただ人が増えたから食糧が足りない、水が足りない、一方でもっと贅沢な暮しがしたい、というのはあまり文明度の高い生き物のすることではないのではないか?何でも安い方が良いという発想自体が、モノの消費を益々増幅させているのではないか、などと考えます。
だから、原発は反対、でもその代りに自然エネルギーであっても次々と新しい発電所を作るという発想も反対。住宅やビルの冷房を止め、自家用車を削減し、人の移動が少なくて済む社会を作り、人の集中を排し、時間帯の分散化を図る、そして何でも安くしないで良いものを高く売る、こうすれば結構快適な社会になるのではないでしょうか?