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日本人の心は「わび・さび」から「萌え・推し」へ ~世界の終わりのいずこねこ~

日本人の心は「わび・さび」から「萌え・推し」へ ~世界の終わりのいずこねこ~

横山 哲也

グローバル ナレッジ ネットワーク株式会社で、Windows ServerなどのIT技術者向けトレーニングを担当。Windows Serverのすべてのバージョンを経験。趣味は写真(猫とライブ)。

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現代日本サブカルチャー、特にアイドル活動を支えている基本思想が「萌え」と「推し」である。

 

萌え

私の身の回りでは、「萌える」という言葉が「心がときめく」という意味で1980年代後半から使われていた。「萌え」の語源は諸説あり定説はないが、1980年代後半から使われたというのは間違いなさそうである。これは、一般的な二人称であった「おたく」が、特定の趣味・嗜好を持つ層を示すようになったのと、ほぼ同時期である。なお、「おたく」の語源は、1983年に「漫画ブリッコ」に掲載された「『おたく』の研究」(中森明夫)からという説が有力である(異論もある)。

「萌え」は、春に草木が芽吹くように(本来の「萌え」)、自分の気持ちが自然に高ぶり、外に広がることを意味する。「内側からにじみ出る」という意味では、日本古来の「さび(寂び)」に近い。「さび」は、「寂れたものの中から、本質が自然に表に現れること」だという。金属にできる「錆」も語源は同じらしい。

 

推し

また、近年よく使われるようになった言葉に「推し」がある。アイドルユニットの「推している(ひいきにしている)メンバー」、略して「推しメン」という言葉で有名になった。ソロアイドルについても「推しメン」という言葉を使うが、「メンバーの中で推している人」ではないので単に「推し」と呼ぶことも多い。

もちろん、行動や気持ちとしては昔からあって、キャンディーズ(1970年代に活躍した3人組アイドル)やピンクレディ(1970年代後半に活躍した2人組アイドル)には、メンバーごとのファンがいて「~派」とか「~ファン」と呼ばれていた。しかし、「推し」という言葉が一般化したのは、AKB48がメンバー間で人気を競わせるようになってからだろう。なお、特定の推しメンがなく、グループ全体のファンは「箱推し」と呼ばれる。また、多くのアイドルを推しているファンは「DD(誰でも大好き)」と呼ばれ、からかわれることが多い(特に非難されるわけではない)。

もっとも、「推し」の気持ちは、「萌え」以上に分かりにくいらしい。「萌え」が、単なる自分の気持ちだとしたら、「推し」は、対象を育てる行動を伴う。推しメンがセンターボーカルを務めるCDを何枚も買うのは、売り上げが「推しメン」の成績に直結し、成績が次の仕事につながるからである。何枚もCDを買わせる販売側の行為を非難する人もいるが、購入する側は純粋な気持ちで買っている。

ただ一方で、「推し」に費やす力は常に不足している。どれだけ推しメンにつぎ込んでも、他の人がさらにつぎ込めば負けてしまう。そこで、どれだけの費用を使ったかではなく、どれだけの効果を上げるかを考えるようになる。お金に物を言わせてCDを買うのも「立派」だが、ライブ会場で推しのTシャツを着て、観客全員にサイリウムを配るのも「推し」の表現方法である。イベントでは、ファンがアイドルのチラシを配っていることだってある。

常に足りない財力を補うための工夫は、不足の美を表現する「わび(詫び)」に通じるものがある。「わび」は、「わびしい中に見出される美」の意味だという。

このように、「萌え」と「推し」は、日本古来の文化の延長線上にある概念であり、突然発生した新しいものではない。

 

「世界の終わりのいずこねこ」

「世界の終わりのいずこねこ」という作品がある。2014年8月31日で「活動終了」したアイドル「いずこねこ(いずこねこ茉里)」の最終プロジェクトとして主演映画が計画され、クラウドファンディングで資金を集めて作られた(「いずこねこ」最初で最後の主演映画『世界の終わりのいずこねこ』応援プロジェクト)。「いずこねこ茉里」本人は、別のアイドルユニットとして活動するので、「活動終了」ではあるが「引退」ではない。

最終的に460万円余りを集め、映画「世界の終わりのいずこねこ」(3月7日~3月27日)とコミック「世界の終わりのいずこねこ」が制作された。また展示「『世界の終わりのいずこねこ』展」(3月7日~4月13日)や販売イベント「世界の終わりのいずこねこ フェア」(3月10日~3月27日)も開催が決まっている。

映画とコミックは、同じ設定を共有しているものの、細部に差がある。コミック担当の西島大介氏によると、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」が、アーサー・C・クラークの小説と並行して作られたのと似ているということだ。コミックには、映画との差異について、いくつか脚注がついている。また、「2001年宇宙の旅」と同様、映画の方が説明が少なく抽象的である。ストーリーを楽しむならコミック版をおすすめするが、映画の映像も見応えがあった。

コミックの印象的な台詞に「願えば叶うことなんてない」「でも、誰かに推されるままに進化することはできる」がある。

成功した人は、ほぼ例外なく多くの人の強力な「推し」がある。武道館単独コンサートを成功させた路上ミュージシャンの宮崎奈穂子さんには、毎日毎日熱心にTweetを繰り返し、不確実な情報を元にライブ現場に駆けつけるファンがいる。AKB48には、推しメンの順位を上げるためにCDを何枚も買うファンがいる。

アイドル「いずこねこ」のファンは「(いずこねこの)飼い主」と呼ばれる。考えてみれば、猫の飼い主は食事の準備や後片付け、下の世話までするわけで、主人というより使用人の方が近い。アイドルは、ファンのおかげで生活するのだが、力関係は全く逆である。「推し」の気持ちは、言われてみれば確かに「飼い主」に近い。

推しメンのために尽くす行為をばかにする人は非常に多いが、「推し」の気持ちは純粋であり、恋愛や家族愛よりも劣るものではない。

コミック版「世界の終わりのいずこねこ」にはこんな台詞がある。

「推し」という行為があります。
それは「愛」や「恋」に似ているけれど
私たちには理解できない概念

推しの対象についてはこう記されている。

人々は「取るに足らないもの」として冷笑した。

芸術とは
文化とすら認められなかった

明治期の知識人は、日本文化を必要以上に卑下した。その結果、貴重な作品が米国などに大量に流出した。1867年のパリ万博などを通じて浮世絵がヨーロッパの画家に大きな影響を与えたにもかかわらず、日本ではあまり評価されなかったという。浮世絵は出展作品ではなく、伊万里焼を包んでいた包装紙だったという話もある。浮世絵には春画も多く、自慢できるものとは思われていなかったためらしい。実際、江戸時代を代表する浮世絵師である葛飾北斎ですら、芸術作品とともに「蛸と海女」のようなきわどい作品も残している。

そういえば、日本の現代映像作品でもっとも多く輸出されているのはアダルトビデオのような気がする。一部作品の表現には人権的な問題があり、さすがにこれは自慢できないものも多いが、アイドルと、そのファンたちの「推し」行為は世界に類を見ない日本固有の文化であり、もっと評価されても良いはずだ。


コミック版『世界の終わりのいずこねこ』

 

そういうわけで、『世界の終わりのいずこねこ』展に行ってきた。コミックの原画や、映画のストーリーボードの他、主人公の衣装や、スチール写真が展示されていた(本展示に限り撮影が許可されている)。

スチール担当の飯田えりかさんは、新進の写真家で、『世界の終わりのいずこねこ』写真集も発売された。

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▲スチール写真

衣装は、実際に使われたもののようである。その手前にはストーリーボードがあり、手に取って閲覧できるようになっていた。

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▲衣装とストーリーボード

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▲コミックの原画

 

映画について

映画版は、「推し」についての言及があまりない。その代わり、配信の人数の変化で「いずこねこ」の注目度を示したり、アイドルらしいコール&レスポンスのパフォーマンスが見られたりする。実際には観客いないのでレスポンスもなく、配信であることが強調される。自宅配信の様子などもよく描かれており、面白かった。

病気の父親が撮影しているのに、なぜ母親が付き添わないのかとか、倒れた父親を助ける人はいないのかとか、いろいろ不自然なところもあるが、ファンでなくても楽しめると思う。

 

関連イベントのまとめ

ちなみに、私の推しは、主演の「いずこねこ」こと茉里さんでも、アイドル活動のストレスから円形脱毛症になった小明(あかり)さんでも、ほんのちょっと登場する地下アイドルの姫乃たまさんでもなく(彼女の文章は推しているが)、コミカライズと協同脚本を担当した西島大介さんでもなく(設定はものすごく面白かったが)、スチール写真担当の飯田えりかさんである(もちろん写真家として)。