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書評:『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』
»2013年10月11日
ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」
書評:『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』
ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。
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ナイジェル クリフ (著), 山村 宜子 (翻訳)
1543年9月、倭寇の頭目の1人であった王直の船が、種子島に漂着し、乗っていたポルトガル人が、わが国に鉄砲を伝えた。これが、日本と西洋の初めての出会いであった、と言われている。このこともあって、ポルトガルはわが国には馴染の深い国ではあるが、では、どうしてポルトガルが逸早く海に乗り出し、海洋帝国を築き上げたのか、ということは、あまり知られていない。本書は、ヴァスコ・ダ・ガマを主人公にして、この点を解き明かした、なかなか面白い物語である。
15世紀前半のインド洋には、周囲を圧する鄭和艦隊が浮かんでいた。しかし、明の政策変更によって鄭和艦隊が万里の長城に姿を変えた後は、権力の空白が訪れた。この間隙を縫って、インド洋の制海権を手中に収めたのが、ヴァスコ・ダ・ガマを先陣とするポルトガルであった。「大航海時代」とは、西洋史の立場から見た呼び方であり、それに先立って、イスラムや中国の大航海時代が、いくつもの航跡をとどめていたのである。
ポルトガルの海の物語は、野心に満ちたエンリケ王子から始まる。ヴァスコ・ダ・ガマの登場まで、多くの冒険者たちが次々に現れた。中でも、ペロ・ダ・コヴィリョンの物語は胸を打つ。彼は、想像を絶する苦難を乗り越えて、インド、メッカ、メディナなどを訪れ、最後はエチオピアの宮廷に留め置かれて、帰国が叶わなかったのである。バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し(もっともディアス本人は「嵐の岬」と名付けたのだが、国王ジョアン2世が改名した)、ついに不屈のガマが登場する。ガマは半年に及ぶ航海を経て、1498年5月に、インドの大貿易港カリカットへ到達した。しかし、東洋の知見に欠けるガマと現地の支配者との意思疎通は上手くいかなかった。インド側から見れば、ガマが外交使節なのか商人なのか、それとも海賊なのか、判断に迷ったであろうことは想像に難くない。ガマは、安定した通商関係を築けないまま、1499年にリスボンに戻ったが、「およそ170人の男たちが出発し、55人ほどしか生きて帰って来れなかった」。ガマは、その後も2度、インドに出航し、1524年、インド提督として、インドで亡くなった。なお、ガマの同時代のポルトガル人には、ホルムズやマラッカを占領した偉大なアルブケルケがいる。
著者は、コロン(コロンブス)よりガマの業績が偉大だとする、また、ガマの航海を(経済的事情より)、むしろ対イスラムの十字軍精神に求めている。この2点については、様々な見方があり得よう。しかし、ガマがポルトガルの黄金時代の礎を築いたことを疑う人はいるまい。ポルトガルの華麗な世界遺産―ガマが眠るジェロニモス修道院を含めて―のほとんどは、ガマが切り開いたアジアとの香辛料交易によって得た富の変形にすぎないのだから。訳文にはやや粗雑なところが散見されるが、本書はいわば十八史略のような歴史読本なので、気にする必要はないだろう。