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書評:『絶倫の人: 小説H・G・ウェルズ』

書評:『絶倫の人: 小説H・G・ウェルズ』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第34回_絶倫の人.png
デイヴィッド ロッジ (著), 高儀 進 (翻訳)
私たちは、「バーティ」あるいは、「H.G.」と呼ばれたH.G.ウェルズについて、何を知っているのだろうか。ジュール・ヴェルヌと並ぶ「近代SF小説の祖」(原子爆弾さえ予見した)であり、世界政府を夢見た理想的社会主義者(国際連盟でも演説した。また、フェビアン協会の有力メンバーだった)、性の自由を主張した華麗な女性遍歴者、また、人類が過去を共有できなければ、未来も共有できないとの思いで書かれた「世界史概観」の著者。19世紀末から20世紀初頭にかけて、彗星のごとく輝きを見せた、世紀の文豪、H.G.ウェルズを俎上に載せて、手練の文学巧者、デイヴィッド・ロッジが素晴らしい伝記小説をここに書き上げた。

物語は、1944年春に始まる。痛み衰えたH.G.は、空襲下のロンドンを離れようとはしない。成人した子供たちがH.G.の世話をしている。レベッカやムーラなど、昔の愛人が無聊を慰めにくる。「精神は、思い出す場合は後方に、予言する場合は前方に進むタイム・マシンだが、彼はもはや予言はしない」。こうして、彼の人生が回想されることになるのだ。そして、H.G.の「独り言」が狂言回しの役割を担い、5部2段組みで500ページを超える大作を、ぐんぐんと前に引っ張って行く。第1部と第2部では、貧しい生い立ちや、イザベルとの最初の結婚と、ジェイン(本名キャサリン)との再婚が語られる。そして、「タイム・マシン」が当たったH.G.の生活は、安定していく。

若いロザマンド・ブランドとアンバー・リーヴズとの情事を描いた第3部には、200ページが充てられている。修羅場が次々に訪れる。例えば、ロザマンドとパリへの一時の逃避を企てたH.G.は、パディントン駅でロザマンドと待ち合わせる。そこに彼女の父親(H.G.の友人でもある)が、激怒してやって来て、娘を連れ去るのだ。当然のことではあるが、こうしたH.G.の直情的な行動は、俗臭プンプンたるフェビアン協会の首脳部を困惑させる。急進的な協会改革案が退けられたH.G.は孤立を深めていき、フェビアン協会を去ることになる。この第3部は、アンバー(彼女の父親もH.G.の友人)がH.G.の娘を出産するところで閉じられる。そして、こうした激しい変転極まりない女性遍歴の渦中の中で、2人の息子を成した妻ジェインは、淡々とH.G.を支え続けるのである。

第4部には、H.G.の息子を産むことになる作家のレベッカ・ウェストとH.G.が愛した3人目の女(後の2人は妻)ロシアのムーラが現れる。そして、ごく短い第5部は、第2次世界大戦が終わった後のH.G.の静かな死。レベッカは、「H.G.の逝き方に、詩がないのは哀切だと思う」。そして、H.G.に並々ならぬ情熱を傾けるロッジは、次のように結ぶ。「彼は視界から消え去った。しかし、文学史には、偏心軌道がある。たぶん、ある日、彼は再び蒼穹で光を放つであろう」と。

本書には、またひとくせもふたくせもある著名な脇役が大勢登場する。ウェッブ夫妻やゴーリキー、セオドア・ルーズヴェルト、中でもバーナード・ショーの変幻自在振りには驚かされる。そして、「ねじの回転」のヘンリー・ジェイムズとの永遠の仲違いも。ロッジは、丹念に史実を積み重ねていく。そして、ごくたまに、小説家の特権を行使して、架空の手紙(それは全て明示されている)を、そっと忍びこませたりする。そのスパイスの効き具合が、また絶妙で、何とも心憎いのだ。