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書評:『自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』
ライフネット生命会長兼CEO 出口治明の「旅と書評」
書評:『自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』
ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。
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『自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』
キャロル・キサク・ヨーン (著), 三中 信宏 (翻訳), 野中 香方子 (翻訳)
知的興奮を覚える、とても面白い本だ。冒頭から(第1章)「科学者はなぜ魚という群の実在性を否定するのか?」という挑戦状が叩きつけられる。著者は、この本を書くことによって、この一見奇妙に見える問いに答えようと努める。何のために?
始まりは、カール・リンネである。若き天才的な植物学者として人生のスタートをきったリンネは、二名法(人間は、「ホモ・サピエンス」として表わされる。「ホモ」が属名で、「サピエンス」が種名)を編み出し、リンネ階層分類と呼ばれる分類体系を定めた。1735年、28歳のリンネは「自然の体系」の初版を刊行した。わずか14ページのこの聖書から、分類学は産声を上げたのだ。この時代の分類学は、自然の秩序を五感で捉え、視覚化する作業に他ならなかった。
次の主役はダーウィンである。リンネから約100年後、ダーウィンはフジツボの研究に取り組む。悪戦苦闘すること8年、馬車に乗っていたダーウィンにひらめきが訪れる。リンネの秩序は、進化の木の単なる影に過ぎない。こうして、分類学は、全生物の系統(進化上のつながり)を学ぶ科学になったのだ。
ダーウィンの後、進化分類学者、数量分類学者(直観的な観察よりコンピューターを用いて、形質データを定量化して計算し、樹形図を作成)、そして、分子分類学者が次々と登場する。統合主義者や細分主義者もいる。分子分類学者カール・ウーズは、RNAの分析によって、リンネの界(動物界や植物界などの最上の階層)の上に、「細菌」、「古細菌」、「真核生物」という3つのドメインを発見してしまったのである。
分類学の(現時点における)最終的な革命は、ヴィリ・ヘニックというドイツ人の昆虫学者によって、果された。ヘニックは、「共有された進化的派生形質」のみを手掛かりにして、近縁生物群を構築しようとした。ここに、分岐学者が誕生したのである。つまり、「子孫全てを含む分類群だけに名前をつければいい」のだ。樹形図は、生命史のみを反映する。こうして、下図のように魚類が消えたのだ。ダーウィン進化論の必然的な帰結は、ヘニックによって完成された。
しかし、以上の分類学の歴史を辿るだけであったなら、本書はここまで面白くならなかったに違いない。著者は、人間がサケや肺魚をまとめて1つのグループとして認識・把握する直観の正体をも、同時に追跡していく。それは、「環世界センス」と呼ばれる。つまり、ヒトが自然や生物を、これまでどのように認識し理解してきたかということを、突き詰めて考えれば、ヒトは人間独自の知覚によって、周囲の世界を把える能力を、生来、備えているという結論に落ち着くのではないだろうか(一種の「プラトンの問題」である)。その能力が、「環世界センス」なのだ。そうであれば、分類学の歴史は、人間の環世界センスとの戦いの歴史だったのだ。直観と科学が衝突するのは、当たり前である。しかし、人間は、環世界センスから逃れることはできない。それは、脳の容量の問題でもあるからだ(民族分類が数え上げる動物の属は600以下)。そうであれば、直観と科学は共存できるはずである。二者択一の問題ではないのだ。
著者の結論は、シンプルで深いメッセージ性を有している。「生物界は死の淵に立たされている。人間のせいで種が絶滅していく速さは100倍から1,000倍になった。しかし、まだ手遅れではない。私たちの環世界センスをよみがえらせ、それを自由に発現させることによって、私たちは、生きものの世界に近づく一歩を踏み出すことができる」。
自然を名づけることは、自然に近づくことなのだ。そして、世界の生きものの多様性を救うことは、学者だけの仕事ではないのだ。