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書評:『ヴェニスの商人の異人論―人肉一ポンドと他者認識の民族学』

書評:『ヴェニスの商人の異人論―人肉一ポンドと他者認識の民族学』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第48回_ヴェニスの商人の異人論.pngヴェニスの商人の異人論―人肉一ポンドと他者認識の民族学
西尾 哲夫(著)

ダークスーツを颯爽と着こなしたビジネスパーソンが、ビジネスバッグを手に所狭しと歩きまわる、電話を掛ける、キーボードをたたく――20年ほど前にロンドンで観たRSCのヴェニスの商人は、確かそのように始まった記憶がある。本書は、人口に膾炙したこのシェイクスピアの名作を俎上に載せ、片方ずつではあるが聴力と視力を失うという病にみまわれた1人の言語学者が、渾身の力を振り絞って、「人肉一ポンドとは何か?」を執拗に問い続ける物語である。

それにしても、と、読者は驚くだろう。人肉一ポンドモティーフは、南米のチリに至るまで、ほぼ全世界に拡がっているのだ。本書に採録された物語だけでも優に40を超える。中には、まれではあるが(人肉の)提供者がユダヤ人となる場合もある。ところで、ある物語が全世界に遍く存在していることについては、一般に、2通りの説明の仕方があるだろう。1つは、人間の考えることはみな同じだ説、即ち同時多発説である。もう1つは、どこかで誕生した物語が順次伝播していったと考える説である。本書では著者は自らの立ち場を明らかにしていないが、例えば4大文明については、かつては恐らく同時多発説が有力だった。現在では、世界最古のメソポタミア文明の影響を重要視する説が、どちらかと言えば多いような気がする。

本書は5章から成る。第1章「人肉一ポンドと女性の知恵」では、難問を解くのがなぜ女性(ポーシャ)なのかが追求される。第2章「『ヴェニスの商人』前史」は、シェイクスピアが着想を得た物語、参照した物語についての論究である。ヴェニスの商人は恐らく「イル・ペコローネ」から採られている。シェイクスピアの作品の多くは、当時流布していた様々な物語を換骨奪胎したものであることは、よく知られている通りである。第3章では「『ヴェニスの商人』の物語分析」がなされる。著者によれば、「人肉一ポンドは、異なった共同体に属する者のあいだで交わされる約束を保証するものだったのだ」。第4章「人肉一ポンドが象徴するもの」では、悪魔的ユダヤ人が登場しない話、あるいは女性の知恵という主題にからむエピソードが出てこない話を確認することによって、人肉一ポンドモティーフが貨幣のメタファーと深く関わっていることが明らかにされる。第5章「人肉一ポンドの本源を求めて」では、貨幣登場以前の人肉一ポンドモティーフを採り上げることによって、人肉一ポンドモティーフの発生が探求される。「賭けの本来の機能が日常的手段では打開できなくなった現実の問題を処理することにあるとすれば、当事者は賭けの結果に絶対にしたがわなければならない」のだ。

著者は結語で次のように述べる。「人肉一ポンド交換パターンによる物語群は、自然から資源を得るには何らかの等価交換が必要であることを物語化したものと解釈できるだろう」、さらに日本の昔話「猿神退治」についても「自然からの恵みをだれとどのように分配するかという観点から」分析がなされている。本書は、富の還元、自然との交換行為を背景とする他者との関係を、ただ1つのモティーフを鍵に縦横に論じている。何事でも突き詰めれば、仮に牽強付会と評されようとも、それは世界にそのまま繋がるのだ。最後に著者は、「シャイロックを救い出したい」と述べる。何故か。それは読者の皆さんが読んで考えてみてください。