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書評:『ヴィクラム・ラルの狭間の世界』

書評:『ヴィクラム・ラルの狭間の世界』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第65回_ヴィクラム・ラルの狭間の世界.jpgヴィクラム・ラルの狭間の世界
M.G.ヴァッサンジ(著)

重くて悲しい、それでいてみずみずしい物語が、抑制された美しい格調のある文体で淡々と綴られる。多用される現地語も彩りを添える。そして、構成も完璧だ。植民地時代のケニアを中心とする東アフリカ。支配者の英国人にとって、インド人は便利で使い勝手のいい中間層だった。過激なアフリカ人マウマウは凄惨なテロで対抗する。独立を果たした後、ヨーロッパ人は去り、インド人は残った。今度はアフリカ人が主人だ。この物語はこうした革命期のケニアを舞台に、狭間(In-Between World)に生きたインド人の人生を、主人公ヴィクラム・ラルに託して書き上げた重厚な作品である。

「第一部 恋と友情の年」は、全編がとりわけみずみずしい。カナダに亡命している汚職にまみれた主人公ヴィクラムの回想で物語は蓋を開ける。田舎で、食料品店を営む優しい両親とその一族に守られた、ヴィクとその妹の奔放なディーバ、ディーバを好きな近所のアフリカ人ンジョロゲの幼年時代があざやかな自然の中で語られる。子どもたちの遊びの何と軽やかなことだろう。おやつの何とおいしそうなことだろう。しかし、暗い影が忍び寄ってくる。ンジョと母の弟のマヘシュ叔父さんは密かにマウマウ(独立派)に心を寄せている。そして惨劇が起こる。一家が仲良くしていたブルース一家がマウマウに惨殺されたのだ(ヴィクは、ブルース家のアニーが好きだった)。一家は首都に移る。ンジョとヴィク・ディーバは離れ離れになる。

「第二部 彼女の情熱の年」。既にケニアは独立している。ナイロビで偶然に再会したディーバとンジョは情熱的な恋に落ちる。しかし、インド人同士での結婚を盲信するディーバの母は優しい心根のンジョを泣き落として、2人の仲を割く。ディーバとンジョはそれぞれ別の人と結婚する。ヴィクは狭間でそれを観ている。「第三部 裏切りの年月」。ンジョの推薦で政府に職を得たヴィクは、優れた実務能力を示し始める。冷めたところのあるヴィクは見込まれて大臣の秘書になりマネーロンダリングを任され、大統領の面識を得るまで出世する。便利で使い勝手がいい、つまりは汚濁に塗れていくのだ。正義感の強いンジョは野党の側に回り、ディーバの店先で、暗殺されてしまう。ヴィクもお払い箱になり、カナダに亡命する。夫を亡くしたディーバもカナダにいる。2人は、やはりカナダにいる反政府派のンジョの息子ジョセフを気づかっている。「第四部 帰郷」。ナイロビに戻ったジョセフはすぐ逮捕される。ヴィクは、ジョセフを救いに帰郷するが、当然の事ながら、破局が急激に訪れる。この最終章は、あっけにとられるほど短い。だからこそ、そこに深い余韻が残るのだ。

目次の前に3つの箴言が置かれている。
「いつも君たちと並んで歩いている三人目の人は誰だ?」 ... T.S.エリオット「荒地」
「これでもない、あれでもない」... ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド
「どこに行ってもついて来る者」... スワヒリ語の謎かけ 答え影
ヴィクに象徴される東アフリカのインド人は、まさに狭間の世界を生きてきたのだ。その哀切さが、実らないディーバとンジョの情熱的な恋に象徴されている。そして、もちろん常に冷めているヴィクにも。ヴィクはこう述べる。「心を躍らせる素晴らしい可能性に満ちた、より広い世界への憧れはある。しかし、あたり一帯に広がる(ケニアのサバンナの)これこそが私の原風景であり、私の心はいつまでもここにある。」と。まちがいなくこれは(やはりカナダに住む)作者ヴァッサンジの言葉そのものであろう。だからこそ、これほどみずみずしい豊かな傑作を書き上げることができたのではないか。