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書評:『エカチェリーナ大帝(上下): ある女の肖像』

書評:『エカチェリーナ大帝(上下): ある女の肖像』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第82回.jpgエカチェリーナ大帝(上下):ある女の肖像』 
ロバート・K・マッシー (著)

もう35年ほど昔のことになるだろうか、アンリ・トロワイヤの「女帝エカテリーナ」を読んだのは。トロワイヤのペンの力に魅せられて、「大帝ピョートル」「アレクサンドル1世」「イヴァン雷帝」などロシア宮廷を題材にした一連の著作をむさぼり読んだことを懐かしく思い出す。そう言えば、池田理代子の「女帝エカテリーナ」もトロワイヤを下敷きにした作品だった。本書は、トロワイヤを遥かに凌駕するページ数を使って、ドイツの小公女がロシアの偉大な皇帝としてその生涯を終えるまでを丁寧に描き尽くす。上巻は皇帝となるまでを、下巻はその治世に当てられている。

アンハルト=ツェルプスト公国に生まれたゾフィーは、不思議な縁で同じくドイツ生まれのロシアの大公ピョートル(皇位継承者)と結婚する(1745年)。14歳のゾフィーは「大公の軽率さと判断力の欠如」に驚く。しかし賢く実際的だったゾフィー(ロシア正教改宗後はエカチェリーナ)は、ピョートル大帝(1世)の娘、エリザヴェータ女帝に気に入ってもらうことを第1とし、懸命にロシア社会に溶け込もうとする(第1部)。しかし、結婚生活は惨めなものだった。ピョートルは妻に興味がない(従って子どもが生まれるはずがない)。一方女帝は妊娠を待ち望んでいて、若い夫婦を厳しい監視下に置く(第2部)。そこに誘惑者青年貴族サルトゥイコフが現われる。エカチェリーナは、結婚後9年目にようやく息子パーヴェルを産む(父親はどちらか分らない)。パーヴェルは、女帝が連れ去った(エカチェリーナは終生パーヴェルと上手くいかなかった)。深い孤独の中でエカチェリーナは読書に慰めを見い出す。タキトゥス、モンテスキュー、ヴォルテール...そこに新しい愛人となるポーランドの貴族スタニスワフが現われる。寵臣を侍らせる女帝は黙認する。ピョートルも愛人を持つようになっていた(第3部)。「わたくしの甥はばか者です」と見通していた女帝が死んで(1761年12月)、夫のピョートル(3世)が皇位につく。ドイツびいきのピョートルは、ロシア軍がプロイセン領深く侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにも関わらず、プロイセンと和睦して、内外の不興を買う。第3の愛人近衛兵オルロフの子どもを妊娠中だったエカチェリーナは、1762年4月に極秘に出産を終えると、同年7月に白馬に乗り近衛連隊を先導してクーデタを敢行し、自らエカチェリーナ2世として皇位に登る。廃帝ピョートルは幽閉先で死亡する(第4部)。

ヴォルテール、ディドロやグリムとの文通を通じて啓蒙思想に共感を覚えていたエカチェリーナは、モンテスキューやベッカリーアを下敷きに2年を費やしてナカース(訓令)を書き上げ、1767年法典編纂委員会を招集する(ルイ16世の3部会招集に先駆けること22年)。しかし、誰もエカチェリーナの意図を理解しない。ロシアで再びこのような会議が招集されるには1906年のドゥーマ(議会)を待たねばならない。戦争や反乱がエカチェリーナを理想から「現実」に引き戻す。エカチェリーナは、かつての愛人スタニスワフをポーランドの王位につけ、プロイセン、オーストリアと共にポーランド領の1/3を分割させる(1772年の第1次分割)。またトルコとの戦争でロシア産業に黒海を解放した。一方で、自ら種痘を受け、天然痘の撲滅に力を貸す。エカチェリーナは農奴制廃止に関心を寄せたが、プガチョフの反乱が、若き日の理想と願望の体現であるナカースをただの思い出と化した。エカチェリーナは、これ以後、帝国の拡大とその文化を豊かにすることに専念する(第5部)。

そのエカチェリーナの前にポチョムキンが現われる。寵臣からスタートしたポチョムキンは、類稀な能力を発揮して、やがてエカチェリーナの掛け替えのない政治的な盟友となる。なお、皇帝であると同時に女性でもあったエカチェリーナがその生涯で愛した寵臣は12人だった。全員が十分な年金を与えられて、安楽な一生を送ることになる(第6部)。パーヴェルに世継ぎアレクサンドルが生まれる。エカチェリーナは欣喜雀躍して、手元で教育を行う。ポチョムキンは、トルコから手に入れたロシア南部を皇帝のように統治した。セバストーポリを建設しオデッサの建設計画を立てたのは、ポチョムキンである。1787年、エカチェリーナはオーストリア皇帝ヨーゼフ2世を伴って、ほぼ半年に及ぶクリミア旅行を行う。ポチョムキンがすべてを御膳立てした。エカチェリーナは第2次トルコ戦争を戦い黒海への出口を不動のものとする。また、ポーランドは第2次分割(1793年)、第3次分割(1795年)を経て消滅した。国王スタニスワフは、サンクトペテルブルグで余生を送る。フランス革命に激昂したエカチェリーナは、1796年、世を去る。雌伏20年の後、33歳で即位して34年間ロシアを統治した。墓碑銘は、ポチョムキンが死んだとき自ら書いていた。「ここにエカチェリーナ2世眠る(中略)ロシア皇帝に即位したときには、みずからの国によきことを残そうと望み、臣下に幸福と自由と繁栄をもたらそうとした。たやすく許し、だれも憎まなかった(後略)」

エカチェリーナのロールモデルは、明らかにエリザヴェータだった。しかし、寵臣との関係でも公私の別はわきまえていた。そして、能力と業績においては、同時代のヨーロッパの君主の中でも傑出していた。エルミタージュ美術館のコレクションは、その大半はエカチェリーナが収集したものである。またクリミア半島は、1783年、エカチェリーナがロシアに合併した。ロシアの動向に世界の耳目が集まっている今日、ロシアを巨大にした最大の功労者エカチェリーナの詳細な評伝が刊行されたことは、とても意義深いことだ。大作ではあるが文章も読みやすく、またトロワイヤに勝るとも劣らないぐらい面白い。それもエカチェリーナという類まれな女性の器の大きさのなせる技だろう。