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お祖母ちゃんの末期の巻

お祖母ちゃんの末期の巻

樋口 健夫

アイデアマラソン研究所所長 ノートを活用したアイデアマラソン発想法考案者であり、電気通信大学講師。現役時代は三井物産の商社マン。 企業の創造性トレーニングでは、ジャパネットたかたの全社員運動、アサヒビールでの研修などを続けている。独創性を命と考えている。

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海外不思議体験 お祖母ちゃんの末期の巻

 私がサウジアラビアに駐在していた時のことだ。

 ある年の正月3日、日本と同じように自宅で正月を過ごしていた。何曜日だったか忘れたが、午後2時ころ突然、恐ろしく気分が悪くなった。吐くところまでではなかったが、胸の中がグワーと抑えられるような感じがした。
 その瞬間、私は体で分かった
「大変だ。お祖母ちゃんが死にかけている!」と、私はヨメサンに叫んだ。

 もちろん、私はサウジアラビアのリヤドに家族で生活していて、お祖母ちゃんは、京都にいた。私のお祖母ちゃんは、癌で入院しているとは聞いていた。だけど、仕事の忙しさの中で、十分に連絡は取れなかった。
私には、「お祖母ちゃんが死にかけている」ということだけが、体で分かった。

 ヨメサンにこのことを話し、気分の悪い中で、自宅から日本の両親の自宅に国際電話を掛けた。両親は不在だった。呼び出し音が続いて、実弟の家も、誰も出ない。親戚全員に電話したが、誰も出なかった。
 お祖母ちゃんが一番可愛がっていた孫が私だった。

(こりゃ、いかん)と思ったが、お祖母ちゃんの入院しているはずの病院名も電話番号も、分からなかった。サウジアラビアの午後2時は、時差で日本の午後8時だ。気分の悪いのが治らないまま午後、私は自宅でイライラしていた。夕方の5時半ころが、一番気分が悪かったので、ソファーで横になっていた。
 早目の夕食も軽く取ったが、気分は悪いまま、事務所に向かった。

 すでに午後7時半だった。日本時間の夜中の1時半である。
 会社で日本からの到着している通信を読み始めたが、気分が悪く、もう一度、日本の両親のところに電話を入れた。

 呼び出し音が何度か聞こえて、(居ないか、切ろうかと)思ったころ、「ガチャリ」と受話器が取られた。
「はい、樋口です」と父親が出てきた。
「ああ、お父さん、私です」
「あ、健夫か」
「お祖母ちゃんに何かあったか」と、私は思わず叫んだ。
「ああ、もう知らせが行ったか。1時間半ほど前に亡くなったよ...」
「いや、もう6時間ほど、気分が悪くて、悪くて、どうしようもなかった。お祖母ちゃんに何かあったと感じたんだ」
「へえ、それは不思議なことだなあ。病院から今、帰ってきて、玄関のカギを開けたら、電話が鳴っていた」
「最後はどうだったの」
「何時間か、相当痛がって、大変やった。この夕方ころからや。最後は特に痛がっていた。可哀相だった」
「きっと、お祖母ちゃん、最後に私を呼んでいたんだ」
「そうかもしれんなあ」

 私を一番可愛がってくれたお祖母ちゃんの葬式には、帰国できなかった。

 それどころか、お祖母ちゃんは、亡くなる時に、私に数十億円のお土産を残していった。
 私の仕事で担当していた数十億円の大型案件で、ほとんど競争相手に決まりかけていたのを、私が本社に提案して、捨て身でサウジアラビアのお客にクレームを付けた。
その案件は、当初、当社が入札で一番札だったはずで、それを再入札にして、手続きが不明確なままに、お客が競争相手の某社に決定しかけていたのだった。
 道義上の筋が通らない話だと、慎重に言葉を選んで、お客に手紙を書き、再考を要求した。半月ほど前の話だった。当然ながらお客の社内では、大騒ぎになり、社内でその事実調査が行われ、近々最終の決定を取締役会に掛けられるとのことだった。
 
 その取締役会が、私のお祖母ちゃんの亡くなった日の、ちょうど亡くなった夕方の時間に開かれたのだった。そして、決定は、当社側に覆ったのだ。
 今でも、私はお祖母ちゃんが、命にかけて、私を助けてくれたと信じている。

現象に対する証言の有無 うちのヨメサン

教訓 遠く離れていても、このような不思議な体験をしてみると、世の中、様々な不思議なことが見えてくる。年齢とともに増えてきている。