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「情報の渦」でカッコ良く踊るために - 第1回
イクナイの未来派生活研究室
「情報の渦」でカッコ良く踊るために - 第1回
EGGPLANT楽団主催 株式会社デザインバンク代表 & アート・ディレクター 株式会社アニー・デザインオフィス アートディレクター ジャンルの垣根なく、仕事活動中。二娘のパパ。音楽は家族。デザイン・アート人生の相棒。創り続ける目的は自分と関連あまたの豊かさ創りです。
当ブログ「イクナイの未来派生活研究室」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/ikunai/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
今回の東日本震災では、Twitterやブログなどを通じて、被災中心地、原発の近隣地域、様々な声がインターネット上に溢れています。物資も希望も無いという悲痛な叫び、被災地からの意外な元気を届ける明るい声、被災地に実際に訪れた医療チームやボランティアの声、mixiには原発で命がけの作業を取り行っていた東電従業員の恋人(自分も現地で作業していたが、途中でチームから離脱した女性)からのメッセージ、福島の風評被害の真っ只中で開き直って放射線を無視した生活をはじめたという青年の書き込み(2ch)、放射能汚染の状況を知らせる個人や大学など。今後の原発事故の残存リスクについて論じた文章など。
どれも、私達が(意識して探さないと)日常目にする事が無いビビッドで叙情的な表現に満ち溢れていて、心を大きく揺り動かされたり、感動したり、何かの行動を起こすきっかけになったりした人も少なく無いと思います。
僕らがこうした記事に触れる時に、一つだけ気に留めておかなければならない事があります。 それは、僕らがよく耳にする『これらはあくまで個人が発信している情報』だということです。 それは本来的にはどういう意味を表している言葉なのか、それがこの記事のテーマです。
★メディア発信の情報と、個人発信の情報の違い
情報の発信における個人とメディアの大きな違いは二つあります。 1つは発信者の性格の違い。メディア発信の情報は『読み手の受け取り方を考えて作られている作品』と言えます。対する個人からの情報は『現場からの声』です。
もう1つは、それが局部的な情報であるか、大枠を捉えた情報であるかです。個人が発信する情報は、めっぽう活動的なフリーのジャーナリストでもない限り、局部的な環境下での見え方を表現している場合がほとんどで、逆に言えばそれが記事内容のビビッドさにつながっているとも言えます。 一方でメディアが発信する情報は、与えられた時間の中で様々な取材や検証を重ね、全国の読者や視聴者へ事実を伝えるのに最適と思われる表現で記事をリリースしようと試みた結果です。
★個人が直接情報を発信できる世界で、メディアが読み手側の事を考えるなんて余計なお世話なのか
メディアごとの特徴や、個人含め、発信者のそれぞれの性格を鑑みるに当たっては、様々な意見があるかと思いますが、私達一般の人間の多くはそう言った生の声に耳を傾けると言う作業に『慣れて』いません。
私達はそれぞれが慣れ親しんだメディアの性格をある程度知っています。メディアがいつもより少々ビビッドな表現を使っていたとしても『◯◯新聞らしいな』と、書き手の性格から、その情景を察する事ができたりもします。それはメディアが発信する情報には『流れ』があるからです。 それは発信者の「味」ともいうべきものであり、同時に情報を享受する立場では発信者の味や性格は、それが一つの情報と言えるくらい重要なファクターです。
しかし個人発信の記事は、発信者の性格を知る由もありませんし、むしろ記事そのもの内容からむしろ性格を察するくらいの順序です。 この震災をきっかけに現地の状況などを中心とした情報を発信し始め、それを継続的に続けている様な方も中にはいます。 そう言った方々はある意味ではメディア化しているという事ができると思いますが、個人の発信者の多くは、溜めに溜めた想いや情報を一気に吐き出す単発型の発信者です。 そういった過程から作られる情報の多くには『流れ』はなく、スポット的な情景を全力で記事に落とし込んでいるという特徴があり、そう言った情報は、本人の意図とは別に「文章だけが一人歩きする」事があり、私たちの目に触れる個人発信の情報のほとんどはそう言った経路を辿って私たちの目の前に辿り着いています。
★大抵の場合、そこに書いてある事が事実であるというジレンマ
情報を収集する際にそれなりの尺度を持って挑めば、個人や身元不明の発信者が掲載し、インターネット上に溢れている情報であっても、大半は「記載されている事は少なくとも事実である」事がわかります。 個人で情報を発信するというのはとてつもなくエネルギーがいる事です。そんなエネルギーを使って「全力でウソをつく」というケースはごく稀で、あってもこの震災でも散見された「善意のデマ」程度です。 この「善意のデマ」の発信源も多くの場合は個人の発信者の「なんとかこの危険性を広く知らせなくては。不確かかもしれないが、知らないよりはマシなはず!」という強い使命感からの表現の強さが生み出します。 更にそういった情報は有志によって広められ、いつしか「未確認ですが。。。」的な表現は情報文章から剥奪され、あたかもそれが「当然の事実」であるかのように振る舞い始めます。これが善意のデマというやつです。 今回はこの善意のデマに、既存のメディアすら短時間ながら踊らされました。 そしてメディア以上に踊っていたのは、実はいつもメディアからの情報発信に頼っている私たちでした。
★私たちを取り巻く情報はどんなものだったか、考えてみる
私たちの多くは、メディアが発信する『限られた記事』の中から多くの情報を得ようとする作業には慣れています。 一方でメディアなどのポリシーフィルタを通さずに、取捨選択されること無しに大量に並べられたスポット的な情報の中から全てを吸収して噛み砕く様な作業、いわばメディアから情報を得るのとは全く逆の「溢れんばかりの雑多な情報の中から本質を見いだす」という作業習慣がありません。
インターネットの中にある個人のブログと新聞の中にある記事を、情報の発信源としての特徴性格を把握した上で、更にそれを実質に即して区別している人は少なく、『区別できているフリをしてしまっている自分に気付いていない』という状況が散見されます。 そうなると「溢れんばかりの記事を全て全力で読む」という作業に陥る場合があり、これは災害事象の研究者でもない限りは本質を探る行為としては効率的とは言えず、更にそういった情報の受け取り方をすることで、今までの情報収集感覚で「これくらい調べれば、事の全容がわかるだろう」という情報の吸収量に対する尺度が働きます。しかし、雑多で巨大な情報渦の中でなんのフィルタリングもなしに受け入れた情報と、今までのメディアから発信された、選りすぐられた情報ソースを読む量と、両者を同じ尺度で比較したとき、局部的な情報しか取得していないのにそれが事の全容と勘違いするというギャップが生じます。
実はそれは無理もない話で、今まではメディアがそう言った作業をやってくれていたのであり、逆にいえばそれがメディアの存在意義で、太古の昔に見果てぬ地を求めて宛ても無く彷徨った旅人が、立ち寄った様々な街で、それぞれの街の特徴などの比較話を行く先々の人々に伝えたのに始まり、そういった「多くの情報を得て、そこから要点を発信する」というメディアの役割が魅力的とされ、長い間必要とされてきた理由でもあります。
★正しい情報という概念と、情報=メディアの図式崩壊を、誰も子供に伝えていない
こういった事は、僕らにとって「情報とはなんであるか」という概念が希薄だから起こるギャップです。個人向けの、一般教養としての『情報との向き合い方』を『新聞や本を読みなさい』と、大雑把に括って子供に伝えてきた日本の教育カリキュラムは、子供を通じて次の時代に伝えなくてはならない「情報の正体」を未だにないがしろにしています。 そもそも誤解しがちな例として、『情報処理』とは、本来的には「パソコンの使い方を教える授業」ではないのです。
ちなみに、今回の記事で、僕は個人の発信者や有志を否定するつもりは全くなし、メディアを擁護するつもりもありません。
何せ話は長いのです。
長い記事の切れ目でそういった事を感じる局面もあるかと思いますが、記事全体を通して「アレはダメでこれはいい!」と結論づける気もありません。次回は震災直後に直面した情報戦争とも言うべき局面では何が起こっていたか、首都圏と被災中心地の例を考えてみようと思います。