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「文章」は複雑な情報を表現するには向かないよね、と考えたこと

「文章」は複雑な情報を表現するには向かないよね、と考えたこと

開米 瑞浩

社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。

当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


こんにちは。文書作成能力向上研修を手がける開米です。

以下、2年前にtwitterで書いていたもののまとめです。自分の記録用に載せておきます。
(twitterで書いたものをそのままコピペしていて、誠ブログ用の編集はしていないので不自然な部分があると思います。それでも興味がある方だけお読みください)

過去ログはこちら→http://twilog.org/kmic67/date-110222
↓以下、本文
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あれは今から20年ほど前のこと。当時僕は、文章によって情報を表現・伝達することの限界を感じていた。複数の要素が複雑に関連し合うような状態を文章で書いても、読者がそれを読み、理解するのは難しい。

地図を文章で書けと言われても困る。機械の設計図を文章で書けと言われても無意味。そういう話だ。「情報」をどんな形式で表現するかは、その情報の性質に応じて選択されなければならない。

20年前、僕は「アタマのいい人たち」にうんざりしていた。社会的な正義感に駆られて活動する人々のうち、インテリな皆様の書くものがなにがなにやらわけがわからないことが多かった。

「これこれこういう理由でこの問題はこうすべきである」という主張をしている文章を読んでみても、全体像が見えない、納得できないことが多かった。そこで、「文章」という手段がそもそも「役に立たない道具」なのではないかと思い始めた。

人は、考えを記述するツールを持っている。例えば f(x) = 5x + 3 というような数式もそのようなツールの一つ。そしてこの種の「考えを記述するツール」は、それが必要になってから実際に作られ使われるまでタイムラグがある。

たとえば現代人が普通に使っている +-×÷ といった四則演算記号、これは15~17世紀に作られた。それ以前の数学は「5足す2は8」のような日常文で記述されていた。

ある新しいテーマの研究開発を始めると、その分野を記述する「記号の体系」が必要になる場合がある。 数学において数学記号が必要になったように、建築や機械設計においては製図記号が作られ、それが図学へと発展する。

20年前、複雑怪奇な文章を読んでうんざりしていた僕は、この種の情報もそれを記述する記号の体系を作れば簡略化できるのではないか、と考えた。

数学記号が数学の発展に果たした役割は計り知れない。 簡素な記号表現ができれば、人はその記号の体系を使って思考を構造化することができる。

そうした「記号の体系」は、数学や工学のような理系の分野で主に発展してきたが、今後は人文系の分野でも必要になるのではないだろうか? と、24年前に某大学の寮の片隅で考えていたわけだ。

必要になるのではないだろうか、というよりは、そうでもなきゃやってらんねーよどいつもこいつもクソ難しいことばかり書きやがってわざと複雑な書き方すればインテリに見えるとでも思ってんのかバカヤロー、とつぶやきつつ(笑)

というわけで、そこで僕は「自然言語を代替するための記号の体系」を作ろうとした。

たとえば「AさんとBさんの主張は対立している」という場合、「対立している」という構造がある。この構造を表現する記号としては例えば「 ←→ 」のように双方向の矢印を使うことが考えられる。

というわけで、自然言語で書かれた文章の中でも頻度の高い論理構造に対して、それを表す記号を定義し汎用化して普及させれば、数学記号によって誰もが数学の勉強が楽になったように、誰もがロジックを追うことが楽になるのではないか、と考えたわけだ。

そして実際にそんな「記号の体系」を作ろうとする作業に着手した私であったが、挫折は早かった(笑)

たとえば「対立」を表現するのに両頭矢印「←→」を使っちゃどうか、とさっき書いたが、A・Bという2者間の構造は他にも無数にある。対立している場合、 協力している場合、ライバルであり友であるというジャンプ的関係、取引をしている関係、通信をしている関係、などなどなどなど

最初のうちは、それら無数に存在する「関係」に対してそれぞれ別個の記号を定義づけようとしたのだが、なにしろ「無数に存在する」ので、実際には不可能だということがわかった。たとえ「定義づける」ことができたとしても、それを覚えて使うことは不可能だと。

もうひとつ分かったのは、ある難解な文章が理解しづらい、という場合、その理由は「文章」という表現形式よりは、書き手と受け手の脳内における認識、認知の問題だと言うこと。そのため、記号の体系が仮に出来たとシてもそれではカバーできない。

24年前、僕は「記号の体系」を作るために、いろいろな文章を読んでその論理構造を記号化しようとした。 ところが、文章では分からない論理構造が、記号化すればわかるか、というと・・・・

文章の状態で論理構造がわからないような文章は、記号化しても結局分からない、ということが判明したのだ(笑) 今なら、そりゃそうだよな当たり前~というところだが。

それがきっけで僕は「人が情報を理解するとはどういうことか」に興味を持ち、認知心理学の本を読みあさるようになった。

そんなある日のこと、立ち寄った古書店である本が目に止まった。「図の記号学-視覚情報による情報の処理と伝達」というタイトルだった。これは何だろう・・・・と気になった僕はとりあえず買って帰った。

この本です→ http://www.amazon.co.jp/dp/B000J7J2YE 図の記号学 絶版本なので中古でしか手に入りませんが、実に面白かった。「視覚情報による情報の処理と伝達」まさにこのタイトル通り。複雑な情報を視覚表現する手法の宝庫だった

さて、「記号の体系」に話を戻すと。ある構造を表現するために、ある記号を決めたとする。 「状況Aに当てはまる場合は、a記号を使う」「Bの時は、b記号」「Cの時は、c記号」・・・・とどんどん「こういう場合は、こういう記号を使えばよい」という形で手法化、メソドロジー化を図ると、すぐにぶつかるのが、「Aならaを使う、Bならbを使うというのはわかりました。 でも、今がAなのかBなのか判断がつきません」という問題。

ケースを特定すれば、特定の有効なメソッドを語ることはできるが、現実には「今がどのケースに当てはまるのか」という判断力を磨かなければメソッドは使えない。

この判断力は結局のところ、誰かから手法を教えてもらって覚えて使うような種類のものではなく、自分自身がリアルな問題に立ち向かう中で集中して考え、「今はAのケースに該当する」と自分で裁定を下し、その結果を引き受けるという経験を通してしか身につかない。

したがって、その判断経験を日常的に数多くこなすように、という意識が大事だ。

こうした「今はどのケースに該当する」という判断をする場面には、形式論理の出番はない。形式論理が役に立つのは、その先の段階だ。率直に言って、形式論理が役に立つのは問題のフレームワークがある程度見えた後の話で、問題の難所はとっくに過ぎた後というのが相場。

そういえば、自然言語を代替できるような「記号の体系」を考えようとして挫折してわかったのは、「記号の体系」は特定の分野に限定して考案し応用するならきわめて有効だ、ということ。

分野を限定して、必要な記号の種類を少数に絞れば、多くの人が共通に扱え、習得できるようになる。そうなれば、共通言語として機能する。だからたとえばIT業界でフローチャートやERDやUMLが役に立つ。

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以上、これで終わりです。なにか尻切れトンボですがtwitterに書いてるうちに眠くなったのでしょう。なにか機会があれば関連するネタを書くかもしれません。では、またお会いしましょう(^^)/