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何故8月15日に靖国に参拝するのか?
マイク丹治の「グローバル・アイ」
何故8月15日に靖国に参拝するのか?
セールスジャパンという、中小企業・ベンチャー企業向けの営業代行・販路開拓の会社で会長を務める傍ら、いくつかの会社の顧問に就任しており、更に政策シンクタンク・構想日本で政策提言を行っています。
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さて、毎年のことだが、今年も政治家の靖国参拝が報道の対象になっているし、一部の閣僚の参拝が中国や韓国の非難の対象となっている。中国や韓国も、どれほど靖国への参拝を本当に重大事と考えているかは疑問だが、反日のシンボル的な存在として、騒ぎ立てるのには良い材料だと看做しているのだと思う。
そして、これだけ毎度毎度諸外国と外交上不必要な衝突を生んでいるのに、何故靖国に8月15日に参拝するのか?8月15日は、確かにわが国にとって終戦記念日であり、先の大戦で命を落とした兵士の皆さんに対して、国としてその霊を慰めることは重要だとは理解する。しかし同時に一部の国にとってこの日は独立記念日であり、どうしても戦時中の苦しい思いを思い出さされる時でもある。
その当日に、極東裁判で戦犯とされた方々をも祀る靖国神社に、その戦争に主体的に関わった日本という国の政府関係者が参拝するとすれば、嫌な気持ちになるというのは、比較的容易に分かることだと思う。もちろん極東裁判が正当な裁判だったかなど言いだせばきりがないと思うし、戦犯とされた方々のご遺族にとっては大変な屈辱だとも思う。だが、すくなくとも戦後の国際正義の下では、これが結果として唯一のわが国国民を救うプロセスの一環だったと理解せざるを得ない。
ましてや、靖国神社は第二次大戦の戦士だけを祀っているのではない。西南の役以来、国家のために命を落とした兵士たちの霊を祀るというのが靖国の意味だとすれば、8月15日ではない日に静かに参拝するという選択肢もあるだろう。また、国際的な不要の議論を避けることを目的と考えれば、改めて分祀を考えても良いのではないか?
問題は、おそらく靖国参拝だけではない。官房長官が堂々と集団的自衛権に関する憲法解釈は政府の専権であるという暴言を吐いてみたり、9条を含む憲法改正論が本格的に議論されていたり、尖閣が国有化されたり、そしてこれは私は気づいていなかったが、先週のエコノミストには相応の容量で記事が載ったように、空母に容易に改装できそうな出雲という大型軍艦が建造されたり、と、周辺国は第二次大戦に向かうわが国の姿に近いものを感じているのではないか?
私も、国民の命を守ることは国家として最も重要な任務だと思うし、米軍がいつ何時も命をかけてわが国を守ってくれる必然性はないと考えている。従って、自国を自ら守るということは必然的な方向性だろうと思っている。だが、一方で明らかに世界中で紛争が起こっていて、経済的な不安定も起こり、増え続ける人口と燃料や食糧不足などの不安が高まる中、第二次大戦に向かっていったのと同じような不穏なエネルギーが世界中に蔓延してきていると感じている。
そして、それを反映してか、相変わらず物理的な覇権主義でしか自らのアイデンティティを確保できない中国のような存在が様々な挑発を試みる中で、わが国が必要以上に同じ論理で対抗するのは極めて危険だと感じるのだ。もちろん不当な挑発行為には何らかの対策が必要だが、それは国防軍を憲法上明確に定め、集団的自衛権を明確にし、軍備を増強するということで解決するのか?
お人よしだけで、益々権謀術数が求められる国際社会の中でわが国が生き延びていく戦略を遂行していくことが出来ないのは事実だろうと思うが、第二次大戦で本当につらい目を見た日本国民の思いを元に、より平和的な方法で、益々増えていく世界の紛争を解決するように、国際社会の中で尽力するということが、日本に求められている役割ではないか?
相変わらず国連憲章上敵国条項対象国であるということに憤りを覚えるが、故川田侃先生が研究しておられたPeace Researchの重みを、初めてテレビでお話をうかがってから40年経った今改めて感じている。そして、そのような平和主義の日本国憲法の意義に思いを致すにつけ、憲法の意義や改正の可否について是非国民皆が真剣に議論してほしいと思う。