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どこまで想定外を想定すれば許されるのか? ありとあららゆるトレードオフに曝される。
理系博士研究者の一人が考えるビジネスマインドと実践例
どこまで想定外を想定すれば許されるのか? ありとあららゆるトレードオフに曝される。
ポスドク&非常勤講師生活を経て、私立大学の教育・研究職に従事する一方でポスドク時代に不動産投資を開始。職場の行き帰りの生活だけでは極めて危ういことを知るに至り、現在は会社・社会・国に過度に依存しない生き方を少しずつ実践中。
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どこまで想定外を想定すれば許されるのか? ありとあららゆるトレードオフに曝される。
「リスクと恩恵を天秤に掛ける。」
既に、どこかで誰かがおっしゃっている内容かとも思いますが、「異口同音」は大切だと思うのです、書きたいと思います。
安全神話の崩壊。
そもそも神話という言葉が使われている自身で根拠がないといっているのと同等ですし、最大の神話は、人類は何が起きようと安全である、助かるという神話かなと思われます。
これも全く根拠がないですね。
今後、一体、どこまでリスクを想定すれば許されるのでしょうか?
- 今後、M9.0 クラス以上の震災も想定するのでしょうか?
- 今回以上の大きな津波も想定することになるのでしょうか?
- それらに対する備えをもし達成できたとして(大きな堤防の建設、もしくは、原発の場所の移動など)、それらに似合う今まで以上のコストを受け入れる用意が我々にはあるのでしょうか?
- そもそも、大自然の力の偉大さを我々人類ごときが想定しうるのでしょうか?
これ以上の想定外は、もしかしたら、人類そのものが存続していないという想定外かもしれません。
原発反対運動が起こるのも当然のことと思います。
ただ、それ以前に、原発が存在したことによる直接的、間接的な恩恵を我々は受け続けてきたことも忘れてはならないですね。
人から まんじゅうをもらって、たくさん食べておきながら、
「あんまりおいしくないなー」などという
後付け的な批判だけはしたくないという想いも当然あります。
真に原発反対を唱えられる人は、
東京電力から供給される電気を直接的・間接的なものにかかわらず、
全く使わずに生きてきた人のみかとも思います。
長期的に、
原発に代わる手段を作り出すのか、を選ぶにしても、
長い時間がかかりそうです。
短期的に、
- 夏の暑い時期もエアコンを使いすぎずに我慢する方を選ぶのか、
- 生き残っている原発を稼働させて暑さをしのぐのか、
という選択にも迫られます。
そんな危険なものなら、想定外のことが起きて制御不能に陥るのなら、
作るな!
という声も聞こえてきそうです。もっともな意見と思います。
ただ、それを許して今日まで来てしまったという国民の完敗だという
見方もできるかと思います。
もし、本当に反対なら、電力の不買運動なりいくらでもできたはずです。
それを我々国民は全く行いませんでしたし、
また、政策を決める選挙もことごとく投票率は低いわけで、
つまり、実質的に大半の人が信任し続けてきたわけです。
口先では反対を唱えても、行動が全く伴っていなかったわけです。
むしろ、賛成派の方が圧倒的に多いのかもしれません。
事態の収拾のために東電や関連企業の方、政府関係者、公務員の皆さんが
少しでも動きやすいように、邪魔をするようなことだけはないように、
することしかできないというのが大半の国民の立場だと思います。
既に、島田徹さんがお書きになっている通りと思います。
(東電叩きは何も生み出さない)
自粛しろ と言う人も 言われる人も
不謹慎だ と言う人も 言われる人も
これは余裕があるからこそできる発言で、およそ、どうでもいいことです。自分が被災したのであれば、そんなことを言っている余裕は勿論ありません。
何が不謹慎で何が自粛すべきことに当たるかは、完全に個人個人の感情に依存するものなので、そもそも議論がかみ合うはずがないですし、客観的事実としてとらえるべきこととも思いません。
現場で作業に当たっている皆さんが、愛想を尽かして、そこから逃げ出したとしても、誰も文句を言えないわけで、そうなったら、我々が作業に当たらなければいけなくなるわけです。
放射線被ばくのリスクについては未だ継続した状況がつづいておりますが、現場の人達は勿論、一層注意深く作業に当たっていただく必要があると思いますが、現場から遠く離れた人達にとっては、多くの様々なリスクの中で生きているわけで、現場の人達にとっても、一定レベル以下の被ばくであれば、必要最小限のリスクに食い止められそうですし、
地震直後に書かせていただいたように、色々なリスクの中で我々は生きています。
- 交通事故のリスク に限らず、それ以上に高いのが、
- 喫煙のリスク
- 自殺のリスク
といったものを(他にもあると思います)我々は長い間、容認してきただけに、
今回のことを機会に、放射線被ばくよりも高いリスク(の可能性のあるもの)
については、見直してしかるべきとも思います。
森川滋之さんも言及されています。
(緊急告白~私は心ない言葉で人の命を奪ったことがある)
一体何を信用すればいいのか?という問題も起きています。
- 政府の言っていることが信用できない
- 東電の言っていることが信用できない
- 専門家(と称している人)の言っていることは本当なのか?
という着想に至るのも当然のことですね。実際、極めて大切なことだと思います。
信用できないなら、自分自身で、信用に値する材料・データを集めるしかないですね。集められないなら、自分自身で一次情報を作るしかないでしょう。
もし、SF映画やアニメのような、少数の人間しか生き残れないような状況になった時に、誰かを批判すること自身成立しなくなるわけで、改めて、多くのことを多くの皆様が作り出したモノから受けられる恩恵に授かっているという事実に感謝するとともに、自分自身は、全く何の役にも立たないし、何もできないという、恐ろしいほどの無力さを痛感するのであります。
荒木 亨二さんがお書きになっていることとも合致すると思います。
(【ニッポン農業考1】 踊らされる人々は、やがて、踊ることすらできなくなる)
更に、ありとあらゆる恩恵を誰かから与えられることに慣れすぎてしまっていること、与えられることが当たり前だと思っていることにも気づかされ、私自身、深く反省しております。
リスクと恩恵 どっちを取るのか! をもっと真剣に考えたいところです。
- リスクがあるなら、恩恵を受けられなくてもいいと 考えるのか
- 恩恵があるなら、多少、ある程度、かなり?のリスクもよし とするのか、
- それとも、それ以外の解を模索するのか?
これらの解は、時間の長さをどれくらいで考えるかによっても、答えが異なってきます。
いずれ、書きたいと思っていたことではありますが、微分積分思考法で大切なもののひとつが、時間軸についての考え方です。
P.S.
引用すべきところをしきれていないかとも思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
P.S.2
最近気づいたのですが、菅直人さんの、菅の字の草かんむり を取ると、
官直人 になって、「官を直す人」 というお名前なんですよね。