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言葉と身体反応、その2

言葉と身体反応、その2

大森 洋明

REBT心理士。うつ状態から回復した経験を経て、SEからカウンセラーへの転身を図りつつ、カウンセリングを世の中に浸透させようと奮闘中。座右の銘は、菅沼憲治先生に頂いた「生死一期」という言葉。

当ブログ「あなたが持つカウンセリングのイメージは間違っている!! …可能性が高いですよ」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/t2k/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


 前回の続きです。

●論理

 論理は、言語を使用における首尾一貫性を支配しているものであり、(現実の事柄ではなく)言語についての言語です。 論理的な文章は互いに矛盾がなく、真であると言えそうな気がします。
 が、現実の事柄に則しているかどうかとは一切関係がありません

 たとえ論理的な文章であっても、現実に十分配慮されているときもあれば、まったく現実を含まない場合もある・・・前回の言い方を使うならば、現地の正確な地図である場合も、まったくでたらめな地図である場合もある。 つまり、現地とはかけ離れたまったくでたらめな地図であっても、論理的な文章ということもこともあるのです。

 数学はまさに論理的と言えます。
「1+1=2」は間違いなく真であり、それ以外の回答は誤りとされるでしょう。 しかし、1つの丸めた粘土に、もう1つの丸めた粘土を足すと、少し大きな1つの粘土になります。 現実の点や線には面積があり、数学的な(面積のない)点や線は定義としてしか存在しません。
 だからといって、現実の点や線がどうあるかは数学の論理が間違っているかどうかに全く影響しません

 アインシュタインは以下のように言ったそうです。
「数学の法則は現実に適用する限り、それは確実ではない。 それが確実である限り、それは現実に適用しない」

 私たちが論理的であるという場合、その多くは「それは頭の中で、他の部分と不整合を起こさないか。 自己矛盾していないか」ということを指しています。 論理的に類推された命題を真とし、それのみで合意に達する唯一の方法は、その論理的命題の一切を現実と照らし合わせないことです。

 逆に科学の世界では、論理的に類推された命題は現実に照らしてみなければなりません。 もしそうでないとすれば、現代科学は(単に悪い意味で)ファンタジーに満ちているでしょう。


●二値的な考え方

 二値的な考え方とは、物事を対立する2つの要素に分け、それ以外を認めない考え方のことです。 これは人間の基礎的な能力であり、場合によっては必要なものでもあります。 と書くと、これが多くの場合「なんとなく良くない考え方であるということを知っている」人は少なくないのですが、知っていても実際にはこの考え方に捉われる人が少なくありません。
(※良くない考え方というのは語弊があるので、現実を誤認させやすい、目的達成のさまたげになりやすいなどと覚える方が、より良いかもしれません)

 たとえば、「両方の意見を聞いてみるべきだ」という場合です。
 この言葉には、物事は二面性があるということを述べているとともに、その二面以外を認めないという前提を含む場合があります。 こうして気づかないまま二値的な考え方にはまってしまうのです。

 二値的な考え方は、以下のアリストテレス論理学の法則の内面化と考えられます。

  • AはAである(同一律)
  • すべてのものは、Aかそれ以外である(排中律)
  • Aかつ非Aであることはない(矛盾律)

 つまり、善いものはすべて善く、善いもの以外はすべて悪く、善ければ悪いことはありえないということですが、現実には善いものにも悪い部分は存在し、ほどほどに混ざっているものです。 善いもの以外には全く目を向けないという態度は、視野をいちじるしく狭めてしまうことになります。
(※決してアリストテレス論理学を貶めているわけではありません)

 二値的な考え方は闘争心を増大させ、現実を正しく把握する力を奪い、人に極端な態度を取らせ、目的の達成をさまたげます。
 物事の起点になることはあったとしても、物事を遂行していくには限りなく不向きな考え方なのです。

 しかしながら、二値的な考え方を助長するものは様々な場所に存在します。
 原始的には戦うか逃げるかの選択を迫られる生存本能があります。 勧善懲悪の物語や神話などは、善と悪を対立させることで意味を持ちますが、これも二値的な考え方を育てます。

 そもそも言葉の構造自体に、二値的な考え方を助長する構造が含まれている場合があります。
 対義語は対となる語と対立して意味をなします。 賢さは、愚かさを前提として否定的に定義され、豊かさは、貧しさを前提として否定的に定義されます。 そのためか、賢さの否定は愚かさ、豊かさの否定は貧しさと勘違いし、二値的な考え方を育ててしまうのです。

 実際には対義語の間には無限に目盛りを振ることができる(多値的な考え方)ことを忘れなければ、二値的な考え方に捉われる機会は減るでしょう。

 善いと悪いの間には無数の目盛りが存在し、すべてが真と偽に綺麗に分かれているわけではありません。
 自民党はすべて善く、自民党に追随しない党がすべて悪いわけではありませんし、二値的な考え方を持つ人にとっては非常に多く存在する悪が選択された場合に、無理やり善を選択させようと暴力に訴えるわけにもいきません。

 にもかかわらず二値的な考え方に固執してしまう行為は、現代社会で踏み絵をするようなものなのです。


●文脈と言葉の意味

 言葉の意味は固定されており、辞書がその正解だ・・・と信じている人がいるかもしれませんが、辞書は正解が書いてあるわけではありません。

 大まかに説明すると辞書は、(コピペでない限り)その時代に使われていた言葉がどのような意味で使われていたかを忠実に記録し、そのステレオタイプを抽出して説明と凡例を加えたものといった感じです。
 辞書に載っている語の意味は、現実に存在するどの事物も表してはいません
(※だから辞書は実際には全く役に立たない無用の長物であると言っているわけではありません)

 語の意味は文脈によって決定づけられます。

 たとえば「鳥を買ってきて」と言った場合に、その前になされた会話が「ペットが飼いたい」という内容であれば生きた鳥であり、「肉料理が食べたい」という内容であれば、食肉であることが分かります。 日本と中国における「正義」や「悪」は同じものではありませんし、もし話し相手が「さっき言ってたやつ、今度持ってきて」と言ったならば、持ってきてほしいものが何であるのかを会話の内容から類推することができるのです。

 この解釈は、文脈の全体に基づく必要があります。

 よく政治家などの発言から二言三言を文脈を無視して抜き出して煽り立てる記事がありますが、ここから読み取れることは「この政治家が、このような言葉を使った(場合によっては使っていないこともある)」ということだけで、それ以上の情報はなんら得ることができません。 こういった記事は1世紀も前に存在していた手法を踏襲しているにすぎず、なにかの情報を伝えようとはしていないのです。

 だからといって、それが即ち記者が歪曲したということにはつながりません。
 この記事を書いた記者にとっては、記事にした発言が政局を左右する大スクープであると信じきっているのかもしれませんし、ただ単に仕事だから先人にならって語を並べ替え、記事を作り上げただけかもしれないのです。

 もし、前回の記事を読んで「朝鮮人を貶めている」とか、今回の記事を読んで「アリストテレスを愚弄している」と読み取った人は、文脈を読み取る練習をした方がよいでしょう。


 ・・・以上、紹介したのはごく一部ではありますが、一般意味論はコミュニケーションに無用な問題を起こさないために大切な言葉の使い方、捉え方を教えてくれます。 それは応用的には、自他の感情の混乱を防ぐだけにとどまらず、教育やいじめの問題の解決、仕事の能率、品質の向上など、私たちの生活に大きく幅広くかかわっているのです。

 また、一般意味論は、多くのこのような理論が道路に引かれた白線のようなものであることを再認識させてくれます。
 車を運転するとき白線に沿って運転しようとは思っていても、白線だけに意識を集中し続ける人はいないでしょう。 しかし、白線から大きく逸れた時、自分で軌道修正しようと気づくことができるのです。

 一般意味論には、特に黎明期にはエセ科学であるとして批判が多く存在したようです。 ただ、その多くは特に意味をなさないものであると私は考えています。 批判者は一般意味論を言葉遊びと揶揄しますが、批判者の多くは一般意味論のほころびを探そうと言葉遊びに腐心することになるためです。

 一般意味論に書いてあることは、ごく当たり前のことだという人もいたようですが、ごく当たり前であるなら間違っていないということですし、残念ながら世の中には発言者のように頭のいい人間ばかりではありません。 多くの人にとって一般意味論が大きな意味を持つだろうことに間違いはないでしょうし、一般意味論があるのにわざと教えず、人に幼稚な、もしくは原始的なやり方でコミュニケーションをとらせて互いに感情を混乱させる意味もないでしょう。

 最近では、一般意味論の評価を見直す声も出てきています・・・という話を耳にしますけど、認知度的にも世間一般に知られるレベルではないのですが。 かといってそれが即、一般意味論がすべて正しいことを盲目的に受け入れるということではありません
 理論を盲目的に受け入れる態度は愚かな行為であり、一般意味論自身も望んではいません。

 もしこの記事を読んで一般意味論を分かった気になった人は、ちょっと待ってください。
 この記事は一般意味論のわずかな部分をかいつまんだものでしかなく、一朝一夕で身につくものではありません。 それこそ大学で授業を行っているようなものなのです。

 理論を学びながらその効果を実感し、理論を体現できるようになるまで(本当の意味で)理解できるようになってみてください。 そうすればきっと、もっと広く知られてほしいと思う気持ちを理解していただけるのではないでしょうか。

 著名人と言われる方々、それだけでなく、もっと多くの方々にこの一般意味論が浸透することを願ってやみません。 できることなら、もっと簡易に分かりやすいエッセンスのような形にして、将来的には義務教育に取り入れてほしいと望んでいます。

 最後に、もしこの記事を読んで「ほら見ろ、この記事にもこう書いてあるぞ!! お前も、このようにしろ!!」などと他人に強要しようと思った人は要注意です。 なぜならその人は、この記事の内容を本当の意味では理解できていないからです。


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