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「相手が悪いのに、なぜ自分が変わらなきゃいけないんですか」、その2

「相手が悪いのに、なぜ自分が変わらなきゃいけないんですか」、その2

大森 洋明

REBT心理士。うつ状態から回復した経験を経て、SEからカウンセラーへの転身を図りつつ、カウンセリングを世の中に浸透させようと奮闘中。座右の銘は、菅沼憲治先生に頂いた「生死一期」という言葉。

当ブログ「あなたが持つカウンセリングのイメージは間違っている!! …可能性が高いですよ」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/t2k/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


 今回は実は別の話を書こうと思っていたのですが、前回の話の内容が若干中途半端だったのと、話の流れ的な関係で、前回の続きのちょっとだけ詳しい話を綴ってみたいと思います。 啓蒙が第一目的のブログなので、局所的に深くよりは、なるべく広く正しくを基本にするつもりですが、たまにはこういうこともありますということで・・・。

 前回は、「相手が悪いのに、なぜ自分が変わらなきゃいけないんですか」というタイトルで、最後に評価の認知に焦点を当てた技法の紹介を少しだけしました。
 今回は、それを少し掘り下げてみたいと思います。

 前回、感情をエスカレートさせる物事の捉え方の例として挙げた文章は以下のようなものでした。

誤:「あいつが悪いことをしたから、俺は激怒している!」
正:「あいつが悪いことをしたのを、《すべきではないことをしたあいつはクソ野郎だ》と評価した自分が、自分自身を激怒させている!」

 この文章における物事の捉え方は《》の部分・・・《すべきではないことをしたあいつはクソ野郎だ》という評価です。
 この評価の認知について検証してみましょう。

 まずは、《すべきではないこと》というのはなんでしょう?
 実際に法を犯したなどの場合は、現実に《すべきではないこと》と言えるかもしれません。

 しかし、この文章の《すべきではないこと》というのは相対的で個人の視点によるものを含みます。 つまり、自分(個人)の中のルールや道徳、常識などに反した場合、例のように《すべきではないこと》という評価を行うのです。

「ドタキャンなど絶対にあってはならない」と信じている人がドタキャンされた場合、理由の如何によらず激怒するかもしれませんし、「風呂に入る前には絶対すね毛を剃り落とし、祈祷の踊りを踊りながら10分かけて剃った毛を冷水で洗い流さなければならない」と信じている人がいたなら(居ないと思いますが・・・)、それに反した行動を見た場合に感情をエスカレートさせるでしょう。

 次に、《すべきではないこと》をした人というのは、全てにおいて《クソ野郎》なのでしょうか?

 答えは否です。

 なぜなら、「《すべきではないこと》をした人=《クソ野郎》」という文章は論理的に飛躍しているためです。 そもそも、その人の行動を評価することは出来ても、その人を評価することはできません

 たとえば普段、「物凄く礼儀正しく頭の回転が速く、約束事もしっかりと守る」人がいたとして、その人が1回遅刻したとします。 その人の評価はどの程度変わるでしょう・・・と文章で書くと、「1回の遅刻が良くなかっただけ」だと、行動を評価しようとするかもしれません。

 しかし、当事者が「この会議には絶対に遅刻してはならない。 もし遅刻するような奴がいたなら、そいつはクソ野郎だ」と信じていれば、遅刻した瞬間「クソ野郎」という評価を受けることになります。

 逆に、これが1回の遅刻ではなく遅刻癖だったとしても、「物凄く礼儀正しく頭の回転が速く、基本的に約束事もしっかりと守るけれど、遅刻癖だけが残念」というのが(行動への)正しい評価ではないでしょうか?

 最後に、この評価の認知を信じ続けることで、何かいいことはあるでしょうか?
 この評価の認知を頑なに信じた場合を想像してみると、《クソ野郎》とののしる、頭に血を上らせて時間を浪費する、何かに八つ当たりをする、他人に「あいつはクソ野郎だから付き合うな」と吹聴する、他のことに対しても気が短くなる、顎に力が入り過ぎて奥歯が悪くなる、血圧が上がり長期間維持されると身体的な問題が起こる・・・など、あまりいいことはないのではないでしょうか?
 これらに完全に当てはまらなかったとしても、この評価の認知でなければ出来ないことというのは自分をみじめにする以外、どうやら無さそうに思います。

 ここまで検証したように、感情をエスカレートさせる評価の認知は多くの場合、現実的でなく、論理的でなく、生産的でないと言うことが出来ます。
 そのような評価の認知を信じ込んで感情をエスカレートさせ、自滅的な行動を行っている・・・と、考えるとどうでしょう。 それが賢明な、自分にとって幸せな選択だと言えるでしょうか?

 では仮に、《すべきではないと自分が思っていることを彼が行なったのは自分にとって残念なことだ。 しかしだからと言って、それが彼の評価のすべてではない》と信じている人が、同じ体験をした場合はどうでしょう?

《》内の文章は、柔軟で充分に現実的であり、論理的な評価に見えます。 また、残念だと思うことはあっても、それで相手に無用なラベリングをすることはなく、感情もエスカレートしません。

 たとえ遅刻されたのだとしても、その後の仕事を進めることもできますし、無駄に友情が崩れることもないでしょう。
 ドタキャンされた場合でも、後で理由を聞くことが出来るかもしれませんし、相手が悪いと思っていたなら後日、埋め合わせをしてくれるかもしれません。
 もちろん、冷静に判断した上で縁を切る選択も可能です。

 片や固定観念的で現実的ではない評価、片や柔軟性に富み現実に即した評価ですが、これら2つの評価の認知は同時に持つことが出来ます。 同時に持ちながらも、前者に傾倒していき頑なに信じることで、感情をエスカレートさせていくのです。

 分かり易い例としては、「個人個人、考え方は違っていて当たり前である」と口にしていながら、実際に違う意見を見た時にヒステリックにネット掲示板やメールで反対意見を書き込んだり、罵詈雑言を浴びせたりする行為などを思い浮かべてください。 これは裏側に、「自分の意見は正しく、決して否定されてはならない。 もし否定されたら、それは自分が無能であるという証明である」などの評価の認知を無意識的に生み出してしまい、そちら側に強く傾倒したためだと考えられます。

 このように評価は何か出来事が起こった瞬間に、無意識的に行なわれているため、普段気付くことはありません。 が、感情がエスカレートしている場合、ほぼ確実に無意識的な評価が行われているということが出来るでしょう。
 この無意識的な評価の認知を来談者に分かる形で言語化し、自滅的にならないよう注意しながら、よりよい考え方を話し合っていくのが認知的アプローチを用いたカウンセリング(の一部)となります。

 文章で表現すると、感情を物のように機械的に扱っているように見えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。

 今回例示した柔軟で現実的な評価の認知はただの一例であって、実際にはやはり個人個人しっくりくる考え方には違いが存在しますし、そうなると当然、固定の感情に押し込めるのではなく、カウンセリング終了時には個人個人別の健康的な感情を持つことになります。 こういったアプローチを行うREBT(人生哲学感情心理療法)などを実際に体験してみると、感情をとても大切にした技法であることを感じることができるでしょう。

 今回は怒りの感情を中心に文章を構成していますが、うつや不安、激しい悲しみなど、他のエスカレートした感情についても同様に言うことが出来ます。

 評価の認知に焦点を当てた技法は、カウンセリングのほかにもセルフコントロールやストレスコーピング、コーチングなどにも効果を発揮します。 このことから、REBTの基礎理論などは、幼いころから教育に継続的に取り入れていくことが有効であると考えられます。