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民主主義=多数決、ではない

民主主義=多数決、ではない

武澤 一登

自動車製造ライン工→書店店員→経理事務→エンジニアと職を変え、今も何とか生きています。今は大学生から法科大学院生と身分を変え、無謀にも法律家になろうとしています。

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 最近特に、国会は民主主義に則っているだの、いやきちんと手続きがなされているから民主主義だなどと、民主主義なる言葉が多用(濫用?)されているように思う。
 だが、多用されている割には、民主主義という概念が正しく理解された上で使用されているとは思えないような新聞記事や、国会議員らの発言を耳にする。民主主義は、いかにも難しそうに聞こえる用語ではあるが、概念自体は難しいことではない。

 小学校の学級会などで、遠足でどこに行きたいのかをクラス全体で決めるときにも、この民主主義に則って決められていくのが普通だ。この例では、先生が生徒に発言させることなく、行き先を決めることは民主主義に反する。小学生に聞けば、民主主義という言葉は知らなくとも、こうした決め方があまり好ましいものではない理由が分かるだろう。特に先生の行き先に不満を持つ場合には。
 では、多数決で行き先を決めたら民主主義に反しないのであろうか。みんなの意見のうち多数の者が行きたい場所に行くのだから問題ないのだろうか。

 答えは、「反する」である。

 なぜなら、このように多数決で決めた場所は、まだ多数派の行きたい場所であると確定していないからだ。多数決では確かに動物園とする票が多数を占めた。しかし、少数派の植物園という案はまだ吟味されていないのだ。ひょっとすれば、植物園という案が多数派を占める可能性もあるかもしれない。だが、植物園という案が多数派を占めるためには、意見交換が必要だ。それも十分に。
 植物園に行きたい者の一人が、大変植物園に詳しい者で、遠足に行く時期には大変珍しい植物展示がなされると主張したらどうだろうか。あるいは動物園の名物であるパンダは今病気で見ることができないと指摘したらどうだろうか。ひょっとすれば、多数決の結果は逆転するかもしれないのだ。こうして少数派である案が多数派に取って代わることが可能である制度が、民主主義である。もっとも、最終的に多数派を占めた案が、間違いであることもある。だが、少数派との十分な意見交換の後に行われた多数決で決められたのであれば、それは仕方がないことだ。ただ、少なくとも少数派の案よりはマシだったのだ。

 このように、多数派と少数派とが十分な意見交換をし、場合によっては少数派が多数を形成しうる環境の下で、はじめて民主主義が有効に機能する。逆に意見交換もそこそこに多数決をしても、民主主義とは呼べないものになってしまう。日本の国会はどうであろうか。未来を決める重要な審議が短時間で片付けられてはいないだろうか。

コメント(4)

「民主主義」の本当の意味、ここで改めて理解できたような気がします。多数意見に沿うのではなく、その事例について「それでいいかどうか」を、きちんと意見交換をするのが大事なんですよね。
選挙前ということもあるのでどうしても政治のことに目が向きますが、今話題になっている消費税UPについても、きちんと意見交換し、議論することが国民の理解につながるのではないかと思っています。

さわだ様、コメントありがとうございます。私の拙い文章からその趣旨を汲んでいただきうれしく思います。民主主義という考え方は、政治にのみ適用されうる原則であると思われがちですが、およそ多数人で構成される集団の意思決定の原則たりうるものだと考えています。

民主主義=多数決、ではない

実際その通りで全体で論議して満場一致でなければ進まない

そんな政党は過去自民党しか存在しなかったんですけどね

例えどんな法案であっても各会派が賛成しないと通らない

それが嫌なら出て行くしかない

民主党の中核の旧田中派にしてもみんなの党の渡辺にしても同じ事ですね

多数派=民主主義という考えは、日本の多くの民主主義の考えとして民俗的土壌の中で深く浸透していると思います。


しかし、武澤様がお考えの通り、それはイコールではありません。

ただ、文中、『議論がされた後に』、

>>だが、少数派との十分な意見交換の後に行われた多数決で決められたのであれば、それは仕方がないことだ。ただ、少なくとも少数派の案よりはマシだったのだ。

という十分な意見が交わされた後の結論を「マシ」と軽んずるような表現には疑問を持ちました。

それこそはここで説明しようとしている『民主主義』の定義として王道を行くものだと思います。

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