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建設的な批判には、「存在を認める」ことが欠かせない。
教育に生きる人間から、社会を創る皆さんへ
建設的な批判には、「存在を認める」ことが欠かせない。
(株)Z会勤務。Z会東大個別指導教室プレアデス代表。Web広告宣伝・広報・マーケティングなどを担当した後、理科課課長を経て現職。(※本ブログ記事は一個人の見解です)
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茂木健一郎さんが「ぶっつぶせ、偏差値入試!」という連続ツイートをされたことが、話題や議論になっています。かなりRT(リツイート)もされたようですね。。。
僕がこのツイートに感じたこととは、Z会で一緒に働く仲間が、Z会ブログで書いたこととほぼ同じです。
僕はちょっと違う切り口から、このツイートを眺めてみたいと思います。結論から申し上げると、今回のブログでお伝えしたいことは、
「批判し、良い方向に変えていくのであれば、批判する対象の存在全否定ではなく、存在を認めた上で、その欠点を洗い出し、"それよりこっちがいい"ってしないと、前に進まないんじゃないでしょうか」
ってことです。
3つの視点で書いてみます。
1.こういうつぶやきの存在を認めよう。
今回の茂木さんのツイート、決して上品とは感じません(苦笑)。
とくに一番RTされているこのツイートは、正直、ここで挙げられた予備校が実際に行っている活動をイメージだけで捉えてつぶやいている気がして......。そして、そうであるならば、具体的な予備校名まで挙げて批判するのは、余りいいとは思えません。
でも、所詮つぶやき、なんです。
このつぶやきだけ切りだすと過激ですが、勢いでこれくらいのことを言うこと自体は、(良いとは思いませんが)仕方ない、の範疇だと僕は思っています。
もう少し加えるならば、こういうコメントまでハッキリ書いてしまう茂木さんだからこそ、別のところでハッキリものを言って、それが良い方向に動かす場合もある茂木さんもいらっしゃると思うのです。 ※僕自身、茂木さんの書籍やTV出演を殆ど見たことがない(ツイッターはたまに見ます)ので、あくまで一般論として、ですが。
以前、東北大学の沼崎一郎教授のツイートが、ネット上で、いわゆる「炎上」しました。このとき以来、沼崎教授はツイートしていません。
このツイートを僕はナマで見ていたのですが、教授にとってこのツイートは、コミュニケーションの一貫だったと思うんです。
以前僕はプロ野球の近鉄球団の応援で、外野スタンドに通っていたことがあるのですが(笑)、相手がエラーすると、面白いんですよ。例えば西武の選手の場合、「やったーやったーまたやったー、○○が、またやったー、せーいぶ電車ではよかえれ~」と、ヤジを飛ばす。でも、こんなヤジ、単なる(野球の応援、という世界で行われる)コミュニケーションの一貫で、笑ってオシマイ、だと思いますもん。
沼崎教授のツイートも、その程度のものだと感じているんです。
茂木さんのツイートは、沼崎さんに比べても「......」と感じるツイートです。
それでもまあ、つぶやき、として、まあアリなんじゃないかな、と思いますし、こんなツイートを認めない! という存在否定では、ツイッターの面白さもなくなると思うんです。発言にいちいち、過剰な注意を払わなければいけなくなってしまいますから。。。
......とした上で、具体的な企業名を出した、思いつき(と思える)の批判は、ツイッターではやめた方がいいんじゃないかな、とは、個人的には思いました。
2.偏差値の存在を認めよう。
茂木さんのツイートの中身に入ります。 ツイートでは、偏差値をベースにした入試について批判されていますよね。
そもそも、偏差値って、なぜ導入されたのでしょうか。これについては、生みの親と言われている桑田昭三さんへのインタビュー記事に詳しく書かれています。
記事からも分かるように、桑田昭三さんは子どもの学力を正確に把握することで切り捨てられていた生徒を救おうとしたのに、「偏差値教育」の生みの親と批判を受けて苦しんだ人なのです。
また、別の友人が、こんなことを言っていました。
「「偏差値教育」を批判する人には,子供の能力を総体として数量化している(あるいは、できる)という発想(偏見)があるように思います。1つの道具でしかないにも関わらず」
偏差値=悪、とみなすことこそが、その思想性のどこかに、偏差値=悪と感じてしまう偏見そのものを包含しているような矛盾、僕も感じることがあります。
いずれにせよ、桑田昭三さんへのインタビュー記事などを読み、偏差値への正しい理解と存在を認めることが、建設的な批判につながると思います。
3.偏差値を重視してきた社会の存在を認めよう。
今回のツイートをベースに、別の友人がこんなことをブログに書いていました。
(前略)
測定基準の中で努力をした人と、測定基準の内中で努力した人を比較した経験はあります。
その経験から言うとまず人を雇用した時には明らかに偏差値という測定基準の中で頑張った経験がある人の方が優秀な確率が高い。
それも圧倒的に。また武道、武術などでは段位や級が必要か不要かという話が良く出るのですが 段位がなくても時折達人は出ます。
でも達人が100点だとすれば、それは制度に関わらず出てくる。
だけど70点の人間の量産は測定基準が有れば大量に出てくる。
段位が無いところからは時々100点と落ちこぼれがたくさんという感じになります。
級や段位があった方が多くの人が挫けずに努力を継続できるからです。偏差値のような数値で測定しないままに才能を伸せる人間というのは人口全体の中では極めて少数の心の強い人だけ。
そうでない多くの人がストレスを最小化して努力を継続するのに偏差値は大いなる貢献をしていると思います。
もちろん、そこでは通用せずに傷ついた人もいるでしょう。
だけど救われた人間の方が遙かに多く、予備校が潰れて偏差値を計測しない場合には、ただ惰性で毎日を生きて自分の可能性を引き出せないままに死んでいく人は今以上に増えるでしょうね。
このように、偏差値が有効に機能してきた側面もあるんです。
社会の中での教育や認知が未熟なことが影響し、偏差値というものの存在が導いてしまう悪い流れ(茂木さんがツイートしたようなこと)を止め、別の流れを作りたいのであれば、偏差値の有効性、および、有効性を利用してきた社会の存在を認め、その上で偏差値が過剰に重視されるようになった社会を批判しなければ、建設的な批判にならない、と思います。
上述した結論をもう一度書かせていただきます。
「批判し、良い方向に変えていくのであれば、批判する対象の存在全否定ではなく、存在を認めた上で、その欠点を洗い出し、"それよりこっちがいい"ってしないと、前に進まないんじゃないでしょうか」
存在の全否定からは何も生まれません。存在を全否定するような提案から生まれるものは、過度な偏見が入り込み、すぐに他者によって再び全否定されるのではないか、と思います。
批判する対象の欠点を直したい、と思うからこそ、その対象の存在を認める、という姿勢が大事なんですよね。
最後に。
偏差値だけで人の全てを判断するような姿勢は、僕ももちろん好ましくないと、強く思います。そして、入試において、偏差値以外の側面も判断できる仕組みはできないものか、と、中央教育審議会、高大接続特別部会のメンバーは毎日考え、そして、熱く議論もされています。 制度や運用を変えることは、多くの人が思うほど簡単ではないため、少しずつ少しずつではありますが、それでも入試としての最適解に近づいている――、そんな気がしています。
※本ブログはZ会ブログ「和顔愛語 先意承問」2014年3月9日の内容を一部修正し掲載しています。