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「何かに巻かれる」と発想すること自体がさもしくないか。
教育に生きる人間から、社会を創る皆さんへ
「何かに巻かれる」と発想すること自体がさもしくないか。
(株)Z会勤務。Z会東大個別指導教室プレアデス代表。Web広告宣伝・広報・マーケティングなどを担当した後、理科課課長を経て現職。(※本ブログ記事は一個人の見解です)
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競合他社、と、ここまでは話してもいいですかね(笑)、の友人(Aさん)が4月に出世しました。
教育に熱いAさんなので、素直に嬉しい、そう思います。
一方、Aさんと同じ会社の人間から、「Aさんって、社長の犬みたいに言われているよ」と聞いたことがあります。
ホンネは友人の心の中だけが知っていますが、僕が見る限り、そんなことはないと思います。
社長を含めて、「えらい人」の気持ちを満たすことを、フツーに「やってあげたい」と思うことは、とっても人間らしいと思うんですよね。
僕だってフツーに思いますもん。社長の、会社の「方針に従う」とか、そういう堅苦しい言葉ではなく、社長がそう考えるんだったら、仕事を通じて、それを叶えてあげたいな、と。
"気持ちの中に、自分の出世を(どんなことよりも)最優先し、その表出行為として、様々な人の健全なお願いを飛び越えて、お上の言うこと"だけ"を見て、それに過剰に応えようとする"これが「(社長の)犬」って有様であって、「社長の言うことをきいた」という一部分だけ(あるいは、その一部分の繰り返しだけ)をとってきて、「社長の犬」という見方をするのは、さもしいと思うんですよ。
本来の意味!?での「社長の犬」である人は、もちろん、超さもしいです。
一方、上記のように、他人のことを、すぐ「何かに巻かれているんだ」と発想することもまた、さもしいくないですかね。
そんな発想が跋扈する場面・場所では、一般的に「力が強い」と思われているものに対して、優しさとか、フォロワーシップとか、発揮する場面が一切なくなるじゃないですか。
※だから確かに、「社長は孤独」と言われる現実もあるわけですが。
他の人が、偉い人のお役に立った時、すぐ「(偉い人に)巻かれているんだ、媚を売っているんだ」と発想する人は、自分がそうされたい裏返し、でもあるんじゃないですかね。いわゆる「妬み」の領域。
僕から見ると、「人様のお役に立とう」という姿勢が薄い人のように見えて仕方ないです。
僕は、何かに所属することが一番嫌いなことの一つなので(苦笑)、だからこそかえって、人から「お願い」されたことは、なるべくお役に立ちたいとも思うんですよね。わかりますかね、この感覚。
もちろん、その人との関係性に基づき、優先順位や濃淡をつけながら。
人間としての自然な、お役に立ちたい、という気持ちを、仕事や組織を通じて結果に反映できている人が偉くなって欲しいと思いますし、そういう人はお客様に対しても同じ姿勢を見せ、結果が残せるものですから、健全な組織であれば、出世しますよね。
派閥とか、そういう、「うちわだけの論理」が風土として優先される不健全な組織では、そうはなりませんし、それが嫌であれば、少なくとも自分自身が、他人に対し「何かに巻かれている」と発想すること自体を止めていくことが、風土改善につながると思うんですよね。
きっと、友人の組織は、健全なんでしょう。
「Aさんって、社長の犬みたいに言われているよ」という声だけで判断されないからこそ(つまりは、そういう声が組織の雰囲気を支配しないからこそ)、出世できたんだと思いますから。
あ、念のため、ですが、僕はそもそも変わり者な上(苦笑)、上述のとおり、何かに所属する・巻かれるのが一番嫌いでなので、管理職になれるなんて思ってもいなかったんですが、というところで、僕の所属組織についてはご解釈いただければ、と。
「寺西を抱えている(!?)Z会は、ほんと、懐広くて尊敬するわ」と、社外の知人からよく言われることもあわせまして(笑)
※本ブログはZ会ブログ「和顔愛語 先意承問」2014年5月10日の内容を一部修正し掲載しています。