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私はドイツの意思決定を讃えたい~原発は必要か不要か

私はドイツの意思決定を讃えたい~原発は必要か不要か

森川 滋之

ITブレークスルー代表、ビジネスライター

当ブログ「ビジネスライターという仕事」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/toppakoh/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


「原発が必要か不要か」というお題が出ました。

私自身どうも現在進行中の話を書くのが苦手で、それもあって松下幸之助さんの言葉をネタにブログを書いていたりします。

というのは、現在進行中の話は、どうしたって情報不足になります。情報不足の中、いろいろと書くと、かなり高い確率で後日恥をかく。マスコミがやりがちなことです。

ただ、マスコミはそれが使命という側面もあり、過去にいったことはどうも免責になっているようです(そうでないと報道なんかできないでしょう)。私は、しがないライターですので、そのような免責は使えない。なので、意図的に避けてきているわけですが、ちょっと思うこともあるので書きます。

●リスク・マネジメントに関する誤解

原発が必要か不要かというのは、リスク・マネジメントに関する考え方を踏まえて議論すべきものだと思います。

リスク・マネジメントについては、多くの人が誤解しているようなので、そこから始めます。

といっても、リスクにはプラスのリスク(好機)とマイナスのリスク(脅威)があるなどというような話ではなく、マネジメントの専門家と思われる人たちも多くは間違っているというような話です。

リスク・マネジメントの順序については、PMBOK(プロジェクトマネジメント知識体系ガイド)に明記されています(下図)。 図の用語はPMBOKから取り、噴出しの解説は私がつけました。

リスク・マネジメントの流れ.jpgこの図を見て、意外に思われた方もいると思います。

「発生確率×影響度の評価って、定量的リスク・マネジメント」ではないの?――たぶん、そう思われたのではないでしょうか。

そういう方は、本来の「リスク識別」を「定性的リスク分析」と取り違えています。 そして、「定量的リスク分析」とは何かをご存じないのだと思います(情報処理試験の参考書でも取り違えていたので、恥じるほどのことではないと思います。用語はどうでも、実際に定性的リスク分析までやられているのであれば、問題ありません)。

定量的リスク分析に使われるツールは次のようなものです。ベータ分布、三角分布、感度分析、EMV分析、デシジョン・ツリー分析、モンテカルロ・シミュレーション。

実は、私もよく分かりません。やったことがないからです。でも、多くの場合問題ないのです。金融商品や投資のリスク・マネジメントでもやるのではない限り、定量的リスク分析はかならずしも必要ないからです。

PMBOK(第3版の日本語版)にも明記されています。「場合によっては、定量的リスク分析は、効果的なリスク対応策の策定に必ずしも必要ではない」。

さて、発生確率や影響度(通常は金額が指標になります)のような、数量的な値を評価することを、なぜ「定性的」というのでしょうか?

理由は単純です。みんなで話し合って決めるからです。

Aさんは、リスクXの発生確率を50%で、発生したときは500万円の損害が発生するというかもしれません。それに対してBさんは、発生確率は25%だが、700万円の損害だというかもしれません。実際に発生していないことなので正解はないのです。みんなで話し合って、妥当だと思われる数値を決めていくしかありません。

このような評価を定性的評価と言います。数値で評価するから定量的だ、とは言えないわけです。たとえば、サービスの満足度を5段階評価することを考えてみれば、簡単に分かると思います。数値で評価するけれど、定性的です。リスク分析もこれと同じなのです。

さて、リスク・マネジメントについて長々と書きましたが、理解していただきたい点は次の2点です。

  • 通常我々がリスク分析と呼んでいるものは、定性的なものであること
  • 定量的なリスク分析は、よほど必要性がない限り行われず、さらに有効でないことも多いこと(いくら、金融商品のシミュレーションを行っても、損するときは損する)

したがって、今回の災害は200年に一度だとか、福島第一原発を襲った津波は想定外だといっても、定性的なものでしかないということです。科学的正解(※)だと思ったら、大きな勘違いでしょう。

なお、プロジェクト・マネジメント経験者はご存知のように、リスク分析をきちっと行ったとしても、最終的には「予算」という名の政治的な理由で、リスク対応の方法は決まってきます。

私は、福島第一原発の壁の高さを7mに決めたのは、それ以上の津波が想定外という理由ではなく、予算ありきで決まったと疑っています。7m以上の津波が、それほど珍しいとは思えないのが、その理由です。日本だけでも、明治三陸沖地震以降、8m以上の津波は、1993年まで4回観測されています。1993年の北海道南西沖地震では、奥尻島で高さ30 メートルの津波が観測されていますから、この際に原発の周囲の壁はこれでいいのか見直すチャンスはあったと思っています。

日本の原発が福島第一原発だけなら想定外でも通用するでしょう。しかし、30年に1回ぐらいの割合で、日本の沿岸には8m以上の津波がきているわけなので、全体としてどうなのかを「想定」する必要がありました。

※科学的正解というのは、言葉からして間違っています。なぜなら、学説として認められる要件として「反論可能である」ということが重要だからです。いま現在正しいと認められている学説も反証一つで簡単にひっくり返ります。だからこそ、科学には進歩の余地があるのです。これは宗教と比較すれば分かりやすいでしょう。宗教においては、創造主や教祖の言うことに対しては反論不能です。

●「正しい知識を伝えればよい」から枠組みが変わりつつある 

リスク・マネジメントにおける勘違いについて長々と書きましたが、用語の問題は別として、多くの人はおそらくリスク・マネジメントの必要性とその怪しさの両方に気づいておられると思います。ただ、一応は確認しておきたかった。以上に誤解があると、以下の議論がかみあわなくなるからです。

というのは、原発が不要か必要かという議論は、結局リスク・マネジメントの話であり、である限りは正解はないと思うからです。

すでに実際に起こっていることについてでも、原子力の専門家がデータ不足で判断できないと言っているのです。将来のことなんかまったく(それも素人の誠ブロガーに)分かるはずもありません。

なんとなく落としどころがあるのかもしれませんが、ファシリテーターもいない状況で、なんやかんやいいあっても、不毛だと私は思います(といいつつなんか書くやつがいるので、お題を出しているのでしょうが)。

くり返し書きますが、リスクの発生確率と影響度については、素人が一人で決められるようなものではありません。専門家が何人も集まって、議論して決まってくる「定性的」数値です。しかも、多くの場合は、議論の結論は政治的理由で決まります。

となると、必ず反対者がいるわけです。

このような「反対者」に対して、過去政府や企業はどうしてきたかを簡潔に書いた文章がありますので、紹介します。

専門家の側には「一般市民は無知だから反対する」という考えがあり、正しい知識を与えれば皆が受け入れるはずであり、それでも反対する人は反体制のイデオロギーを持った人だとみなす構図があると平川氏は言う。日本での原発をめぐる議論は、まさにその典型だった。

(ビデオニュース・ドットコム http://www.videonews.com/on-demand/521530/001831.php

※ぜひ、上のリンクの文章を全部読んでいただきたいと思います。

文中の「平川氏」というのは、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター平川秀幸准教授のことです。氏は、政府の意思決定に関して、専門家が市民に対して発信するときに、どうすれば市民の納得を得られ、また市民の意見も反映されるようになるかを研究されているようです。

問題意識の根底には、イギリスのBSE問題があります。

当初専門家は、BSEが人間に感染することを否定していました。なので、BSE対策が遅れに遅れ、ヨーロッパ全体に甚大な人的、物的被害をもたらしてしまった。そのため、一時期イギリスでは科学に対する不信感が強まった時期がありました。

現在のイギリスは、この「科学の信頼の危機」を乗り越え、世界でももっとも市民が科学に親しんでいる国として知られいます。

この危機を乗り越えるときに、イギリスがとった手段は、正しい科学知識を啓蒙するということではなく、受け手の感情に配慮して、対話を重ねることで納得してもらう、そういうしくみを作るというやり方だった、というのが私の理解です。

そして、日本でも、平川氏のように、どうやったら専門家の意見と市民の感情をうまく融合していけるのかを専門に研究している人が脚光を浴びつつあります。

いま、日本で必要なのは、これではないかと思うのです。

原発が必要か不要かなどというのは、専門家にも分からない(あるいは真摯な専門家ほど結論を言いたがらない)テーマだと思います。

だとしたら、専門家も市民もみんなで議論して、定性的かもしれないがリスクに関して合意して、一体となって進めていくしかないのではないか?では、そのためにはどういうしくみを作り、何を議論していったらいいのか?

これらのことを、まず考える必要があると考えます。

●どうせ議論をするなら夢のある方向で

さてさて、むちゃくちゃ前置きが長くなりました。

タイトルの通り、私はドイツが2022年までに国中の原発をすべて廃止するという方針を発表したことを高く評価しています。

それはなぜか?

本当に2022年までに、 ドイツ国中の原発をすべて廃止できるかなんか、今の時点では誰もわかりません。

これから様々な議論になり、やっぱり4分の1ぐらいは残しておこうという話になるかもしれません。

ただ、感情論かもしれませんが、福島第一原発の状況を見ていて、原発の近所に住みたいなんて思う人は、まあいないと思うのです。私は、絶対に嫌です。原発から利権を得ている人以外は、できればないほうがいい、あれは必要悪だと思っているように思います(思わせてください)。

だから、多くの人は(必要か不要かは別として)原発がないほうがいいと感じているという前提で話をします。

原発が必要か不要かという議論が不毛なのは、最終的には感情的な対立をあおるだけのように思うからです。

誠ブロガー同士がそうなるという意味ではなく、そのような議論を日本中でやっても、最後は総選挙で決めるなんて話になるだけで、負けた側の感情的なしこりは必ず残る。ヘタすると日本が真っ二つに分裂などという話もあながちSFの世界だとは言い切れません。

そうではなく、原発をなくすのが理想あるいは夢であるとするのならば、とりあえずはその方針で考えてみる。

まずは原発はないものとして考えていかないと、絶対に廃止できるものではない。原発が必要か不要かと議論している間は、原発をなくすということは不可能だと思うのです。可能性を捨ててはいけない。

原発をなくすという方向で議論しないと、代替エネルギーの研究も本気では進まないだろうし、その他いろいろな研究の成果も出てこないと思うのです。

2022年にドイツは原発をすべて廃止できないかもしれません。しかし、その間に出てくる研究成果や議論の記録は、原発は必要か不要かというような不毛な議論をしている国に比べると、ものすごい質と量になると思います。

理想は研究の動機付けを高めますし、制約条件は人の能力を最大限に発揮させる助けになるからです。

できるできないではなく、それが理想だから国を挙げて考えようというドイツの姿勢を私は高く評価します。

追記
なお、原発のコストが安いというのはうそです。電気代が安くなる理由は、政府から補助金が出るからであって、補助金の出所はもちろん私たちの血税です。