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今年を表す漢字1文字:誰かがきっとあなたを見ている
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僕にとって、今年の一文字は「会」である。
なんとなく落ち込んでいる人にはヒントになるかもしれない。元気な人は読まなくていい。
● 「会」の意味
「会」は元々「會」という字で、これは△印(あわせる)+増(ふえる)の意味。つまり、多くの人が寄り集まって話をすること。
つまり「オフ会」とか「会議」の「会」なのだが、私の場合はどちらかというと二人ないし少人数で会うということが、今年は多かった。交流会のような場でも、数人としか話をしないということが大半だった。
● 人生の干潮
今年は、人生に何度かある経済的干潮で、とはいえ中潮程度だが、精神的には以前より成長したようで、それほど胸も痛まなかった。
ただ、それは表面的な部分で、深層の部分ではけっこう精神的ダメージを受けていた。それは震災のショックと重なるもので、根深かった。
なんだかよく分からないけど、やる気がでないのだった。経済的干潮もそれが原因であり、その干潮がまた精神的なダメージをじわじわと深めていった。
こういうとき人間はどうすればいいのか?
● 目の前の仕事に取り組め?
識者は言う。目の前の仕事に一心不乱に取り組めと。それが突破口だと。
でもねえ・・・。
そもそもやる気がないのに、どうやったら目の前の仕事なんかに取り組めるんだろう。
その辺がさっぱり分からずに数ヵ月をムダにした。
● 夢を持て?
夢を持てと別の識者は言う。
しかし、そもそもやる気がないのだ。
夢なんていくら考えても浮かんでこなかった。
第一、僕は理念はまだしも、夢には否定的だったりする。
かなっちゃったらどうしたらいいの?次の夢?一生が夢の無限ループ?
"夢幻"ループなんてサイアクだ。
それ以前に、夢を達成した自分の姿をイメージすることさえできなかった。
● 利他の心
さらに別の識者は言う。
利他の心を持て、と。
理念と言い換えてもいいかもしれない。僕はこれには肯定的だ。
人間、人の役に立つということが一番モチベーションが湧く。感謝されるからだ。だから、お礼を言わないやつはきらいだ。
(まあ、感謝を求めるのは利他の心ではなかろうが・・・)
それで、自分が何で人様のお役に立てるのかを考えることにした。
ところが、これもなかなか見つからない。
案は出てくるのだが、どうもピンとこない。
もっとも得意なことをやれば自然と人様のお役に立てるはずと思ったが、これもイメージが浮かばなかった。
それに人間、ある程度経済的余裕がないと人の役に立つということもできない。自分が汲々としているので、そちらが先になってしまう。
人の役に立てば儲かるだろう――という邪念が先に立ってしまう。貧すれば貪する、というやつである。
それもよく分かった。
● 人に会おう
あるとき、いつものようにFacebookを何の気なしに見ていたら、××さんと○○さんとお会いしたときに僕の話題になった、というコメントがあった。
××さんも○○さんもろくでもない(誇張表現です)人なので、どうせ悪口でしょうと返したら、意外なことに誉めていたと言う。
ちょっと嬉しかった(はあと)
そこで、また別の識者の意見を思い出した。
落ち込んだときは人に会え、と。
それから、人に会うことにした。
● 俺なんかでいいの?
社交的でないので、できるだけ少人数で会うことにした。
誉めろとまでは要求しなかったが、僕は何をしたらいいか聞いて回った。そうすると意外と誉めてくれる。
交流会などもお世話になっている人の誘いであれば参加するようにした。
そのときも大勢と話そうとか人脈を増やそうなどと思わず、親しい人とだけ話すつもりで行った。
すると面白いことに、この前□□さんと話をしていたときに、森川さんの話題になりましたよという人が必ずいた。
ほんとかよ?と思った。
俺なんかでいいの?――そう思った。
身内は別として、人がどんどん離れていく(経済的干潮時とはそんなものだ)実感しかなかったので、それは本当に嬉しいことだった。
こうして人に会うたびに元気になっていった。
ようやく11月には、自分の新しい方向性が定まり、いまは人並みに仕事ができるようになった。
● 誰かがあなたを見ている
人に会い続けていると、誰かが自分を見ていてくれているということを知ることができる。
僕のような、健全な社会人とはとても言えないような、性格的にも問題があり(と自覚している)、社交性もなく、金銭的成功もしていないような人間でも、誰かが見ていてくれている。気にかけてくれている。
人に会うことを思いつかなかったら、鬱病になっていたかもしれない。
自分がどん詰まりだと思うなら、どうか引きこもらないで、人に会ってください。
● おまけ
よく「縁」だとか、「絆」(今年の漢字になったが)だとか、そういう言葉をムードだけで使う人がいる。
たいして親しくもなっていないのにタマタマ名刺交換をしただけで、このような言葉を大書した葉書を送ってくれる人がいるが、そんな大事な言葉を軽々に使ってはいけない。
以前、「縁」という言葉が大好きな若いコンサルタントにメールをしたところ、何週間も塩漬けにされた挙げ句、催促しても数日返事がないことがあったので、「それがおまえの"縁"という意味か」と叱りつけたことがあった(やっぱり性格に問題がある)。
先方は反省していたが、名刺に「ご縁を大切にします」などと書いていた時点で、想像はついていた。
だって、まっとうな人間にはそんなことは当たり前であり、わざわざ名刺になんか書くことではないからだ。
(大丈夫かなあ、こんなこと書いて。僕の好きな☆☆さんとか、名刺にそんなこと書きそうな気もするが・・・。そのときは、あなたは覚悟が違うからとフォローしておこう)
サイアクなのは、「一期一会」という言葉を気軽に使うやつ。
一期一会の出会いを大切にいたします、なんてメールをもらうと、「おまえ何考えてるんだ」と言いたくなってしまう。
これはありがたい出会いなんて意味じゃないんだ。
もう二度と会えないと思ってもてなす、という意味で、考えようによってはかなり縁起の悪い言葉だ。
茶の湯という武人のたしなみだからこそ生まれた言葉に違いない。
明日になれば、自分かあなたかどちらかはこの世にいないかもしれない。そう思ってもてなすのだ。少なくとも「今後ともよろしく」なんて意味じゃない。
ホスピタリティなんて、それこそムーディーな言葉とも覚悟が違う。
ムードで言葉を使っていると、そのうち覚悟ある人に叩きのめされますよ。