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入社前から罠がある
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管理人から「新社会人」というお題をいただいた。実は、入社式に関して前から書きたい話があったので、この機会に書くことにした。成功哲学批判とはあまり関係ない内容となる。
新社会人のお役に立つ記事を心がけたつもりだが、いつものとおりまったく役に立たなかったとしても怒らないでほしい。お役立ちは大切だが、それ以前に面白い話を書ければと思っている。
クソ記事を読むのに時間を取られたと怒る人が昨今多いようだが、会社ではもっとクソみたいなことに時間を取られる(注)ので、この記事は新社会人のみなさんの耐性をつけることに役立つかもしれない。
(注)会社で自分の仕事のために使える時間は1日あたりだいたい1~2時間程度。これは新人も管理職も同じ。新人は雑用が多いから自分の時間が少ないと思っていたら大間違いで、管理職も雑用ばかり(ただし、森川調べ) 。
僕は1987年に新社会人になった。ちょうど四半世紀が経ったのだなあ。
1985年ごろからバブルが始まったという人が多いのだが、それは嘘っぱちである。
たしかにバブルのきっかけは、1985年のプラザ合意だ。だが、このおかげで1ドル240円がたった1年で1ドル120円になり、1986年は円高不況と呼ばれる状況だったのだ。
当時は、就職活動は4年生になってからであり、円高不況の年は僕にとっては就活の年であった。文学部在籍の僕には求人がほとんどない中、何とか某IT企業にもぐりこんだ。当時、文学部の男子学生でIT企業に入るものはほとんどいなかったので珍しがられたのだろう(文系男子学生は求人の対象外だったが、電話して強引に説明会に参加した。その根性も買われたのかもしれない)。
なぜバブルの話などをしたかというと、このあたりの微妙な年代を把握しておいてもらわないと、今からする話を作り話だと思う人がいるかもしれないと思ったからだ。
なにしろ、僕の会社には社員寮というものがあったのだが、それは二人部屋だったのだ!
バブル景気まっさかりのときに、大手企業を中心に社員寮を整備し、一人部屋はおろか冷暖房完備が普通になったが、それは1988年以降のことである(注)。
僕らが入った会社は東阪二本社制だった。入社式は東京で行われたので、我々大阪本社や支社に配属された男子新入社員たちは、入社式前日から関東地区にあった3つの寮に別れて宿泊するように命じられた。
ちなみに女性はホテル宿泊であった。男女差別は昔からあったのだ。
さて、二人部屋の男子寮である。もちろん、あの体育会系のヒエラルキー社会がそこには存在していた。
(注)僕が学生のときは、家賃1万5千円の木造の下宿に住んでいた。エアコンなどはなく、夏は扇風機、冬はコタツと電気ストーブだった(京都市内のほとんどの下宿は石油ストーブ禁止!)。京都の夏は暑く、冬は寒い。いま考えるとよく耐えられたなあと思うが、当時はこれが普通だった。それなのに仕送り額の平均は我々のほうが多かった。いまの学生は本当にたいへんだと思う。なお、仕送り額の推移については、こちら(http://shinroroom.blog13.fc2.com/blog-entry-368.html)を参照のこと。
寮に着くやいなや我々は命じられた。荷物を置き、入浴を済ませて、食堂に集合するように、と。当然軍隊のごとき時間厳守である。集合時刻まで約30分。寮の大浴室は、真夏の湘南の海水浴場のようなカオスと化した。
さすがに肛門の中にタバコを隠していないか調べられたりはしなかったが、そのようなことをされるかもしれないという緊張感が新入社員の間に蔓延していた。
食堂に行くと食事が用意されていた。けっこうまともなので安心した。ただ、寮長と呼ばれるおじさん(社外から雇われている人だ)が、片手に一升瓶を持っていたのが気になった。我々は例の洗礼が始まることを覚悟した。
大学であろうと会社であろうと新人男子に待っている洗礼といえば、当時は酒を無理強いすることであった。我が社員寮でもそれは予告なしに開始された。
最初に乾杯して一気飲み。次にそれぞれ自己紹介をしては一気飲み。席にやってきて一升瓶を傾ける寮長にお礼を言っては一気飲み。仕事が終わって帰ってくる先輩社員が望めば一気飲み。
いまはこんなことは行われていないと思うが、ほんの20年ほど前までは日本のいたるところで、このような野蛮な儀式が行われていたのである。
酒に弱い人は、最初の乾杯から順に倒れていく。大学の体育会の新歓コンパではないので、倒れている者に無理強いする者はさすがにいない。
寮長が用意していた三本の一升瓶が空いたのが終了の合図だった。20人近くいた新入社員は4、5人に減っていたが、サバイバル組には次に麻雀が待っていた。
僕もサバイバル組で卓を囲んだのだが、最初の半荘が終わったときに、これは罠ではないかと思ったので、急に酔った振りをして、早く寝ることにした。
案の定、それは罠であった。
3つの寮すべてで同じような儀式が行われていたのであろう。何人もの新入社員が、社長訓示のときに舟を漕いでいた。
そして、毎年のことなのだろう、人事部の課長はそのような者たちを全員チェックし、休憩時間に名指しで叱ることで、新入社員全員に喝を入れたのであった。
このような罠を予測していた僕は、二日酔いでかなり苦しかったが、なんとか目を見開いて耐えることができ、公衆の面前で名指しで叱られるという醜態を避けることができた。
僕はどうしてこのような罠が予測できたのだろうか?
それを説明するには、僕の悲しい臨海学校体験を聞いてもらわねばならない。長くなるが許してほしい。
臨海学校。それは小学校を卒業する前の、光り輝く思い出になるはずのイベントのはずだ。
しかし、僕にとっては社会の現実を思い知らされ、大人への決定的な不信感を植え付けられる契機となったのだった。 僕がこんなひねくれたブログを書いているのも、あの臨海学校のせいなのかもしれない。
生水禁止。僕にはこの言葉がよく理解できなかった。
当時千葉に住んでいたのだが、親戚のほとんどは関西におり、夏休みや冬休みは大阪や奈良で過ごすことが多かった。 当然、水道水を普通にコップで飲んでいた。僕のお腹が心配で、水道水を煮沸するような親戚は一人もいなかった。
だから、臨海学校が開かれる天津小湊の水も同じだと思っていた。水道水でお腹を壊すという概念が僕にはまったくなかった。インドじゃあるまいし。
ところが、臨海学校の栞には生水を飲んではいけないと明記してあった。事前説明会でも、生水は飲んではいけないと注意を受けた。
決定的なのは、到着直後の旅館のご主人の訓話だった。ご主人も生水は絶対にダメだという。その代わりにお茶を甕に入れて冷やしておくから、それを飲めと言う。
天津小湊の水道水はそんなに危険なのだろうか? ここまで言われても、僕には半信半疑だった。そして、そのような児童は僕だけではなかったようだ。たぶん、毎年何人かいるのだろう。
しかし、学校の方針は生水禁止だ。教育機関の意地に賭けても、方針は貫徹されなければならない。
臨海学校というのは真夏に行われる。外は普通は炎天下だ。外から戻ってきたら当然のどが渇く。僕らはお茶の甕に向かってまっしぐらに走った。
ところが甕がない! 旅館のおばちゃん(仲居という感じではなく、あきらかに近所のおばちゃんが手伝いにきていただけという格好をしていた)に聞くと、今作ってるから待てという。ぶうぶう言っていると、あの悪魔の一言が返ってきた。
「お茶の用意ができるまで、水道の水でも飲んでれ」
子供は大人の言うことを聞くべきだと僕らは習った。自分たちに都合のいいことならなおさらである。
僕らは歓声を上げて、備え付けの湯飲み茶碗に水道水を入れて飲んだ。
そこへ、タイミングの良すぎることに、先生が現れて、「こらあ~」と叫んだ。
生水を飲んだ児童は一網打尽にされ、先生方が泊まっている部屋に集められた。
僕がおばちゃんが飲めと言ったから飲んだんだと行為の正当性を主張すると、先生は今でも憶えているあの一言で返してきた。
「お前は従業員とご主人のどちらの言うこと聞くんだ!」
当時は体罰などあたりまえだったが、頭をたたかれるよりショックだった。社会で国民はみな平等と教えてくれた先生が、身分差別としか思えないことをいうのだ。僕はようやく陰毛が生え始めたが精通もない子供だった。しかし、この言葉で一足早く大人の世界を垣間見た気がした。
生意気に口答えする僕には、さらなる追い討ちがかけられた。
「班長のくせに水を飲んだのは森川だけだ。班長は交替だ!」
小学校6年生にして、降格の憂き目にまであってしまったのだった。
生水を飲んだ者は全員、約束が守れなかったので家に帰すということになった。先生を先頭に天津小湊駅まで歩く間、僕たちは泣きに泣いた。親に合わせる顔がない――僕の思いはこれだけだった。
駅に着くと、先生が「おまえら本気で反省してるか?」と尋ねた。僕らは、うえーん、本当に反省しています、と泣きながら答えた。
「よし、それなら帰すのだけは許してやろう。その代わり、午後はずっと反省文を書いとれ」
帰るのだけは免れたが、一番楽しみにしていた海水浴とスイカ割り大会には参加できず、反省文を書く羽目になってしまったのだった。
なお、生水を飲んでお腹をこわした子供は一人もいなかった。天津小湊町(というか千葉県)の名誉のために一言付け加えておく。
さて、そのときは子供だったし夢中だったので、自分が悪いと思っていたのだが、数年後考えが変わった。
どう考えても、甕が空になるタイミングが変だし(僕らは数時間外にいてから帰ってきたのだ。用意していないのはおかしい)、先生が現れるタイミングも劇的だった。
あれは間違いなく罠だったのだ。スケープゴートを使って、残る人間を管理する。管理サイドの常套手段である。
麻雀をしているときに、ふと臨海学校のことを思い出したのだった。あれと同じにおいがする、と。
子供の頃の強烈な体験は忘れられないという。僕は、あの臨海学校のおかげで罠には敏感な大人になってしまった。それで、なんとか事なきを得たのだった。
会社というところは、入社式どころかその前日から罠をかけてくるところである。
入社式で名指しで叱られるなどという目に会いたくなければ、気をつけてほしい。
入社式以降も次々と罠が待っている。特に人事部という部署は、あなたたちの学生気分を吹き飛ばすためにあの手この手を使ってくる。そういうことに長けた人たちの集まりなので気を許してはいけない。
人事部だけでなく、講師も次々と罠をしかけてくる。集合研修が終わってOJTになると、今度は育成担当が毎日のように罠をしかけてくる。
あるときは同僚が地雷を踏むのを見て、またあるときは自分自身が地雷を踏むことで、学生気分は少しずつ爆破されていく。こうしてみんな立派な社会人になっていくのだ。がんばってほしい。
ところで、社長訓示で寝るような人は、やはり大物なんだろうなあ。全員が出世したわけではないが、出世している同期のほとんどは寝ていたやつだった。