誠ブログは2015年4月6日に「オルタナティブ・ブログ」になりました。
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"懐疑派"で行こう!
当ブログ「ビジネスライターという仕事」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/toppakoh/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
ブログのタイトルを過去3回替えてもらったのだが、このたび4回目の改称をしてもらった。本日より「本当にそうなのか?」になりました。
3ヵ月ほど「成功哲学への素朴な疑問」というタイトルで書いてきたが、「成功哲学」ネタでの投稿が減っているのと、だんだんと自分の書きたい方向性が定まってきたからである(ということは、方向性がなくても誠ブログには書かせてもらえるということなので、ブロガー募集にはふるってご応募を!)。
すでに663本も記事を書いていて、ようやく方向性が・・・、などと言っているのは、自分がバカなのをさらけ出しているだけのようにも思うが、多少言い訳がないでもない。
そこで今回は、タイトル変更の意味も含めて、その言い訳を書いてみる。
昨年3月11日の大震災でショックを受けた人は多いようだ。 僕もその口である。
津波で大勢の方が亡くなったり、被害を受けたりしたのももちろんショックだった。自分はたまたま運がよかっただけだと思う。いまだに被災地では傷跡が癒えていないという報道にも、相変わらずショックを受ける。
だが、それよりもショックだったのは、福島第一原発の事故であった。
原発の安全神話については懐疑的だった。大災害が直撃すれば何らかの事故は起こるだろうと思っていた。
しかし、「チェルノブイリ並み」(これも検証が必要だろうが、僕の検証能力を超えているので、とりあえずカッコに入れる。少なくともそう言われていた。なお、以下もセリフや資料名以外でカッコに入れているものは同様の意味)の事故が、この日本で起こるとは思っていなかった。
あれは「腐敗した社会主義」がもたらした事故だと素朴に信じていた。
事故は起こるだろうが、日本でならすぐに収束すると思っていたのだった。
ところが、収束どころか、まともな情報さえも流れないということがだんだん分かってきた。
これでは「腐敗した社会主義」と同じではないか。僕の中で「民主主義に対する信頼」が大きく揺らいだ。
「民主主義への信頼」だけでない。東電という「優秀な人」が集まっているはずの会社に、基本的なリスク管理能力がなさそうだということまで分かってきた。
もちろん、現場には優秀かつ使命感のある人がいて、一生懸命被害が広がらないように努力していたことも分かっている。ただ、それこそ属人的というものだ。組織的なリスク管理や障害回復能力がなければ、安心できない。
東電だけを責めてはいけない。これは昔から言われていたと思うが、政府にもその能力はなかった。
さて、福島県と言う東京からそれほど離れていない場所で「チェルノブイリ並み」の原発事故が起こったという報道があった(ここまでは事実だ)。
正直、僕は関東には人が住めなくなると思った。
ところがである。
原発事故が原因で、自宅に住めなくなった方々には心から同情するし、農作物や海産物への風評被害に至っては腹立たしいのはもちろんなのだが、「チェルノブイリ並み」の事故が起こっても、想像していたような地獄絵図にはならないということも分かってきた。
地獄絵図といっても、バイオレンスジャックや北斗の拳のような欲望と暴力の支配する世界までは想像していない。僕が想像していたのは、『はだしのゲン』で読んだような原爆症に近い被害が関東一円で見られるというものだった。
黒い雨が降って、多くの人の髪の毛が抜け、白血病のような症状でバタバタと人が死んでいく。死なないまでも後遺障害に苦しめられる。
しかし、そんなことはいまだに起こっていない。
何十年先は分からないという意見もあるだろう。しかし、それももちろん僕には検証できない。理屈や恐怖心だけ言われても、蓋然性は「ノストラダムスの大予言」とあまり変わらないのじゃなかろうか? そして、我々は「ノストラダムスの大予言」を半ば信じ、そして裏切られたと感じた世代だ。
以上をまとめると、原発の事故一つとっても、何が何だか分からなくなってしまった、ということだ。
正直に言うと、原発の再稼動に賛成するのか反対するのかとつきつけられても、わかりませんと答えるしかないのが、今の僕の状況なのである。
Twitterやブログでは断言できても、国会やテレビなど衆人環視の場で断言できるかと問われて、できる人はどれだけいるのだろう?
原発反対を言いたいわけではない。
危険は危険だと思う。でも、火力ならいいのか、水力ならいいのか、風力ならいいのか、太陽光ならいいのか、地熱ならいいのか? 全部ダメだけど、全部あり。だったら、原発も入れて、メリット・デメリットを比較して意思決定しましょうという世界だ。
それはそれで正しいと思ういっぽうで、本当にそれでいいのかとも思う。こんなことすら分からない。
でも、もう一度考え直すと、我々は何十年もそんな状況でごまかしごまかし生きてきたのではないのか?
そう思うと、何も変わっていないというのも一つの見識のような気もする。
しかし、震災を機にそのようなごまかしは通じなくなったというのも一つの見識のような気もする。
僕が思うに、何となく信じてきたものが、地震と一緒に揺らいでしまった。だから、何もかもが見識のように見えるし、逆に何もかもが暴論とも思える。そういう状況なのだと思う。
寄って立つものがなくなってしまった。足元が揺らいでしまった。少なくとも僕はそうなってしまった。
こういう時代に人が求めているのは何だろうか? ということを自分なりに一生懸命考えた。考えすぎて、鬱になりかけた。仕事が手につかなくなった。1年間まったくスランプだった。
間違ってもいいから尖ったことを言うことかもしれない。そう思って、今年のはじめのほうはがんばってみたが、支持は得られなかった。何も分からないということを自覚している人間が、何かを断言しても相手にはしてもらえない、ということなのだと思う。
なんとか分かろうして、たくさんの本を読み、いろいろな人の意見を聞くのだが、ますます分からなくなってくる。
なんとなく真理のようなものに手が届きそうな実感を得ることもあったのだが、そう感じた瞬間に逃げていく。一つ知見を得ると分からないことがよけいに増えていく。
分からなくなった僕は何人かのブロガーと、読まれるブログとはどういうものかを話し合ってみた。
おおよそ以下のようなものだろうということになった。
- 専門家や評論家が世の中のことを分かり易く解説してくれる
- 自分のイイタイコトを代弁してくれる
- もやもやとしていることに解決を与えてくれる
- 人に話したくなるような"小手先"の知識、技を教えてくれる
そのときは、「悪いけど、みんな思考停止したいんだね」と思った。僕は、自分の頭で考える人とつきあいたいので、読まれるブログを書くのは無理だと思った。
しかし、それはいくらなんでも読者に失礼だと、すぐに反省した。
そこで、本当に自分にできることはないのかもう一度考え直してみようと思った。
1はちょっと無理だと思った。自分は無知であり何も分からないことを自覚し、表明さえしている。その人の解説を読みたいとは思わないだろう。
4は単に自分向きではないと思った。
2と3が何だか引っかかる。組み合わせてみたらどうだろうか。
それで出てきたのが、「何をもやもやしているのかを代弁する」という方向性だった。これなら、無知な僕でもできるはずだ。いや、無知だからこそいい。頭の中は疑問でいっぱいだから、それを素直に書けばいい。
そう思って書いてみたのが、「夜行バスの事故はいったい誰が悪いのか?」という記事だった。
こういうことは書かないほうがいいのだろうけど、誠ブログに書き始めて以来はじめて、アクセスランキングの1位を狙って書いた。これが1位にならないなら、もう自分には読んでもらえるコンテンツはないので、誠ブログに書くのはやめようと思った。本当に辞めていたかは分からないが、背水の陣的な気持ちで書いたのは本当だ。
おかげさまで思った以上の反響をいただき、書くのを続けられることになった。
ただ、その後実際には1や4の路線なども狙っても書いてみた。1ヵ月ほど試行錯誤して分かったのは、やはり1や4は自分の路線ではないということだった。
しかし、絞るのはなかなか怖い。もう一つだけ試したみたのが、「生活保護に関する素朴な疑問」という記事だった。
結果として、なんとなくもやもやしている人に向けて「僕はこんなことを疑っているんだけど、もしかしたらあなたもそうではないですか?」ということをメインに書くことにした(たまに、書評や製品レビューや管理人からのお題についても書くでしょうが)。
最初は、「"懐疑派"で行こう!」というブログタイトルにしてもらおうと思ったのだが、あまりにも某氏のパロディであることがあからさまだったので、シンプルに「本当にそうか?」とした(この記事のタイトルはもちろんパロディ路線です)。
デカルトじゃないけれど、寄って立つ基盤が分からなくなったときは徹底的に疑うしか、自分を取り戻す手立てはない――このように考え始めてから、僕はようやく震災の呪縛から逃れられるような気がしてきている。
できるだけ断言は避けて、考えるきっかけを提供したい。もっといえば、僕の問いについて考えるよりも読者が自分なりの問いを立てるきっかけを作っていきたい――そんなブログにしたいと思っています。
タイトルから、世の中のことにいちゃもんをつけたいだけと思われるかもしれない。元々あまりよい性格とは言えないので、そういう記事もあるかもしれない。ただ、「誠ブログ」の名に恥じぬよう、誠実に生きたいという気持ちもあるのは信じていただきたいなあと思う。