誠ブログは2015年4月6日に「オルタナティブ・ブログ」になりました。
各ブロガーの新規エントリーは「オルタナティブ・ブログ」でご覧ください。
なんとなくお座敷がかかる生き方がいいのでは
当ブログ「ビジネスライターという仕事」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/toppakoh/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
僕のブログをいつも読んでくださっている方は、僕がとても心が弱く、すぐにやる気がなくなるということをご存知かもしれません。
これではいけないと何度も反省し、その都度人生の指針を求めて本を読んだりするのですが、なかなか何を頑張ればいいのか分からないでいました。
ところが最近読んだ3冊で、なんとなくその辺が見えてきたように思います。
最近読んだ3冊というのは、以下です(リンク先はすべてAmazonアソシエイトです)。
内容の紹介はとっても長くなるので、割愛します。上の3冊に影響されて、今回の記事を書いているとご理解いただければ十分です。
3冊とも、資本主義的イデオロギーからすれば悪書の代表です。よく禁書にならないなあと思うほどです。左翼的言辞を弄すれば、資本主義の監視・支配の巧妙さを感じます。中道的にいえば、資本主義の懐の深さを感じます。まあ、こんなのは言い方次第ですが。
左翼本と思われるとそれだけで敬遠する人も多いので、ちょっとだけ共通点を解説することで、それとは全然ちがうということを示します。
どれも世間と人生の空しさに気づいてしまった人のための本です。なんだか自分の人生を生きていないなあと思う人も含まれます。現在の日本はこんな人であふれかえっています(僕もそうでした)。
たとえばウィルソンは、世の中が見えちゃった人をアウトサイダーと呼んでいます。これは、とても生きづらいのです。世間や学校や職場から教わったことに盲従して生きていければ、それはそれで幸せだけど、一度見えてしまうと、もうどうしようもない。
苦渋の人生が始まります。そこからどう抜け出したらいいか。
ウィルソンの問題意識はここにあります。そしてこれは、3冊に共通する問題意識です。
著者の立場で解決方法は違います。
肉体労働者からこの本で著名な学者になったウィルソンは、ブルジョア的な価値観に異を唱えつつも、最後は宗教的体験に抜け道を求めます。宗教ではなく、宗教的です。神秘体験と言ってもいい。といっても今はやりのスピリチュアルというようなものではなく、本格的な神秘体験。悟りに近いものです。
仏教学者のひろ氏は、仏教に抜け道を求めます。彼は悪人正機説を引いて、善人をやめろといいます。善人とは世間の常識に縛られた人です。
政治学者ですが思想家といってもいい姜氏は、哲学に救いを求めます。しかし、これも悟りに似ています。彼は「二度生まれ」と呼んでいます。それは死の直前にでも訪れます(例として、トルストイの『イワン・イリイチの死』を挙げています)。
ひろ氏は、死ぬ直前に人生を後悔してもしかたないから、そうなる前に好きに生きろと言います。姜氏は死ぬ直前であっても悟ることができれば人生逆転できると言います。
このように方法論的な部分ではそれぞれ違いはありますが、大まかにいえば、幸せかどうかは、自分の心次第であり、他人がどう言おうが関係ないという点では共通しています。
簡単にいえば、こういうことです。
たとえば釈迦も今これを読んでいるあなたと同じことで悩んでいました(そういう悩みのない人はとっくにこの記事を読むのをやめていると思うので)。しかし、悟りを得ることで生まれ変わり悩みがなくなった。
抜け出すには悟るしかないのです。
そして、悟りとはいつでもそうですが、世間の常識からの解脱なのです。
こういう本を読んだあとで、あるメルマガで紹介されていた次の記事を読みました。かなり読まれているようです。
▼年収3億円×年収300万円 開成→東大 同じ学歴でもこんなに違う生活と考え方
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33568
簡単にまとめます。
開成高校から東大を経て社会人になっているほぼ同期の3人がいます。プロフィールを引用させてもらいます。
外資系証券会社トレーダーA氏
東大工学部を卒業後、外資系証券会社にトレーダーとして入社。年収は倍々ゲームで増えていき、リーマンショック前には3億円を達成。都心に億ション、軽井沢に別荘あり地方公務員B氏
東大法学部を卒業後、外資系メーカーに入社するも1年で辞め、父方の故郷である関西の政令指定都市の職員に。現在の年収は700万円。よほどのことがない限り定時に帰宅負け組弁護士C氏
東大文学部を卒業後、ロースクールに特待生として進学するも司法試験になかなか受からず、30歳を過ぎてから弁護士に。現在は首都圏の弁護士事務所に勤務。年収300万円
敬語の使い方から考えると、B氏が少し先輩で、A氏とC氏は同期のようです。
学歴が同じでも、ここまで人生が違うという話です。かなり極端ですが、リアリティはあります。
少し補足すると、A氏はもうちょっと稼いだらセミリタイアしたいと考えています。
また、B氏はある意味地方の名士です。地方では東大出の公務員は間違いなく名士です。これをB氏は「ローカルな無敵感」と称しています。
C氏は、弁護士では食えないので、ソーシャルメディアを使って、旦那が東大出であるだけでいいという資産家の娘との結婚をもくろんでいます。
まあ、はっきり言ってどれも「嫌なやつ」です。こういう3人が本音で語っています。他の2人の生き方はほぼ全否定。自分だけが正しい。特に「負け組」のC氏には手厳しい。C氏はC氏で屁理屈で武装します。
実に後味の悪い記事です。しかし、最後まで読んでしまいます。
3人の誰かに自分が近い気がするからかもしれません。少なくとも1つぐらいは納得することを言うのです。
自分なりに分析したのですが、3人とも幸せそうでないのは共通していました。
A氏は、金持ちでなければ誰も尊敬しないでしょう。
B氏は、地方公務員でなくなったら誰も尊敬しないでしょう。
C氏は、弁護士でなければ誰も尊敬しないでしょう。
彼らはそれが分かっているから、しがみつきます。C氏にいたっては東大出にしがみつくものを替えようとしていますが、執着しているということでは一緒です。
抹香くさくなりますが(大丈夫、この記事の結論はそれほど抹香くさいものではありません)、執着は煩悩の中でも一番苦しいものです。
彼らが「嫌なやつ」なのでイライラする人も多いと思うのですが、僕には執着にもがく姿が透けて見えてしまう。なので、実は同情的です。この人たちには「二度生まれ」の可能性は極端に少ないなあと思えてならないのです。
では、どうすればいいのか?
悟ることです――などと言ってしまうと、違和感のある人も多いでしょうし、ハードルが高すぎると思う人もいるでしょう。
なので、もうちょっとライトなことを提唱します。
「なんとなくお座敷がかかる生き方」を目指すのがいいのではないでしょうか。
方法は簡単です。月1回から2回ぐらい対面で会える人を増やしていきます。ある程度親密度が高まれば、普段はメールやフェースブックで、会うのは3ヵ月から半年に1回ぐらいでもいいと思います。
こういう人たちは、忘れたころに仕事をくれたり、人を紹介したりしてくれます。これを称して、僕は「お座敷がかかる」と言っています。なぜなら、まずは飲みに行きましょうという話になることが多いからです。
お座敷がかかるようになるためには、多少の努力が必要です。
まず、仕事をもらったとしたら、それは一生懸命やらないといけません。納期を守らないなんていうのは論外です。怠け者の僕でも、いただいた仕事だけはきっちりとやります。
人を紹介してもらったとしたら、その場その場が勝負です。あとから手紙やメールを出せばいい(僕は逆にこういうことはしません)ではなく、それこそ一期一会と思って印象付けます。
印象付けるというとちょっといやらしいのですが、やっていることは次のようなことです。
- 相手に興味を持っていろいろと聞く
- 否定しない
- 怒らず、ニコニコしている
- 生い立ちや共通の趣味の話をする
- 自分のことは聞かれたら話し、けっして自慢はしない
- いろいろと教えてもらったことに感謝する
まあ、酩酊度が上がってくるとこうもいかないことが多いのですが、いずれにしろ自分のことを語らず、相手の話を聞くほうがいいということです。
努力と言ってもこの程度のこと。要約すれば、人と会う機会を増やし、ニコニコと怒らず相手の話を聞き、自慢せず、何かを頼まれたら一生懸命やる、これだけです。
続けていれば、忘れたころにお座敷がかかります。
なお、このような努力は自営業者や経営者はもちろんですが、会社員こそやるべきだと思います。会社への執着度を小さくするのが、幸せへの第一歩だと思うからです。
一度に多くの人と会おうとしてはいけません。
異業種交流会などの人が多数集まるところは、こういう関係づくりには不向きです。
とにかく名刺をかき集めたい人ばかりくるので、親密な関係を作ろうとするのは、かえって相手に迷惑です。
高い参加費を払った割には、異業種交流会から何かが生まれたことはほとんどありませんでした。読みもしないメルマガやDMをもらうぐらいが関の山です。
大量に名刺を集めて、そこにメルマガやDMを送り、0.1%のぐらいの人が購入してくれればいいという商売をしている人には重要な集まりでしょうが、人間関係を求める人には向いていません。
あなたの知り合いになってくれた人(別に著名人でなくていいのです、あなたがリスペクトできる人なら)が、こいつはやるなと思っている人を集める――そういう「お座敷」に呼ばれることに注力するのです。
こういう場に呼ばれたときの幸福感は、筆舌に尽くしがたい。
なんとなくお座敷がかかるようになれば、なんとなく生きていけます。それも幸せに。
幸せな理由は、変な執着心がなくなるからです。その分、自分が際立ちます。無理をしなくてもエッジが立ちます。なんとなく無視できない人になれます。すごい人と言われなくても、それで十分承認感を得られます。
承認感はやはり必要なのです。しかし、自慢したり、人をバカにしたり、否定したりして得る承認感ではダメです。基盤が自分にないので、人と比較してしまう。上には上が必ずいますから、その承認感はもろいのです。
「人生なんとでもなるよ」というのは、一つの悟りだと思いますが、この悟りを得ている人は、ほぼ例外なくお座敷のかかる人です。
そうなろうと思えば、基本はニコニコしていることであり、くよくよしないことです。
人と会うときに見返りを求める人は、多くの場合くよくよします。なんか呼ばれたけど金になる話じゃなかった、なんて思う人はくよくよしてしまうわけです。それは敏感に察知され、以後そのお座敷には呼ばれなくなります。
まあ、僕も最近気づいたことなので、この前会ったときの態度と矛盾しているじゃねえかと怒りだす人もいるかもしれません。それについては重々反省していますので、許してください。
でも、これに気づくのは大きいですよ。
このように思い始めてから、忘れていた印税が入ってきたりとか、未払い金があったので支払いますとか、一度立ち消えになった仕事が舞い込んでくるとか、なんとなくお金に恵まれます。
ただの偶然と一笑にふす人もいるでしょうが、僕には偶然と思えないのです。
公開してから、フェースブックに、お座敷を用意できる人はもっと幸せだと気づかされるコメントがありました。
A氏のような金持ちに、我々が反感を持つのは、お座敷を用意しないところにあるのかもしれません。