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言語だけでは伝わらないは本当だった
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ある会社から取材の仕事をもらった。自社の商品を第三者の声でPRしたいという趣旨である。実際の利用者にいろいろ聞くわけだ。
利用者がとても喜んでいたので、できるだけ本人の言葉を使うのがいいと僕は思った。それで、そのような書き方をしたら、校閲者からダメ出しをくらってしまった。
「いやあ、たぶん利用者は、まったくそのとおりに言ったんだと思いますよ。で、その場にいた人には、『わあー、喜んでるんだなあ』ってことが伝わってきたんだというのも分かるんです。でもねえ」と校閲者。
「でも、何でしょう?」と僕。
「その場にいなかった人は、何それ?って思うんですよ」
がーん。これには頭を殴られたかのようなショックを受けたのだった。
実を言うと、この部分が一番頑張って書いた個所だったものだから。
このダメ出しで思い出したのが、『人は見た目が9割』という本だ。かなり売れた本なので、ご存じの方も多いだろう。
タイトルはやや煽り系だ。このタイトルだけ見れば、身だしなみに関する本のように思えてしまう。しかし、実際は「言葉だけでは伝わらないのだよ」ということを主張している本である。
著者の竹内一郎氏は、芝居の演出をやり、マンガの原作なども書いている人だ。つまり視覚+言語で表現する世界にいる人であり、その経験に基づいた主張なので、説得力がある。
実はこの本を、ダメ出しされた取材のあった数日前に読み直していたところだった。つまり、校閲者のいうことは、取材前に知っていたはずだったのだ。
その場にいて、言語以外のもの――利用者の笑顔、興奮した声のトーン、身振り、社外秘なので公開できない資料などなど――にたくさん触れているからこそ分かることは、その場にいなかった人には伝わらない。
そんなことは分かっていたはずなのに、この失敗。
人は、実際にやってみて失敗しないと理解できないものらしい。
言語だけで伝えようとしても難しい。
それは、言語が無力だからではない。
小説のように、言語以外の情報を(言語として)書きこめるようなものであれば、ある程度は伝えることが可能だ。要するにディテールを書きこめばいいわけだが、あまり書きこむと読者は飽きる。できるだけ短い説明とセリフなどで伝わるように書くのが作家の腕だ。
しかし、PR用の取材記事は小説とはまったく違う。まず文字数の制限がある。そこで、写真が重要になる。また、簡潔かつ的確に背景を説明しておくことも必要になる。そして、ビフォー・アフターが浮き彫りになるように工夫しつつも、できるだけ感情を排して、事実と理屈を淡々と書く。
頭では理解していることでも、利用者があまりにも喜んでいたので、変な方向に張りきってしまった。そして、ダメ出しをもらって、自分が空回りしていたことに気づいた。
まあ、こういうお恥ずかしい話だったということである。
実を言うと同じ取材記事でも、インタビューしている僕が前面に出ていって成功した記事が最近あったのだった(これはPR記事ではなかったが)。その成功体験にも縛られていたようだ。
前述したことと合わせると、人は失敗で学び、成功でつまづくものらしい。となると、人生は失敗と成功の無限ループだと言うことになる。なんだかつらいな。
言語で伝えるのは難しいということは、裏を返せば言語は簡単に誤解を招くということである。
いくら内容が良くても、書き方がぞんざいだったり、書き手の姿勢に問題があると思われたりしたら、もう伝わらない。そちらばっかりに目が向く人がたくさん現れることになる。それが人の自然な反応なのだ。
ブログが炎上するときなどはたいがいそうだ。
内容で炎上することもあるが、書き方が悪くて炎上することのほうが圧倒的に多い。
悪意のあるコメントのほとんどは、筆者を知っている人から見たらありえない内容だ。ただ、そう思うのは、記事に書かれた言葉以外の部分で、その筆者を知っているからだ。
会ったこともない人であれば、ぞんざいな書き方に反応するのは当然であろう。その言葉でしか筆者を知る機会がないからだ。
そう考えれば、ある程度以上に認知されている人以外は、自分の言葉遣いに気を使って使いすぎるということはない。
「この、くそばばあ」なんて言葉遣いが許されるのは、毒蝮三太夫だけなのだ。