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岩崎弥太郎はなぜ鳥カゴを山ほどしょっていたのか 大河小道具ドラマ『龍馬伝』の演出術

岩崎弥太郎はなぜ鳥カゴを山ほどしょっていたのか 大河小道具ドラマ『龍馬伝』の演出術

高瀬 文人

フリーランスのライター/編集者/書籍プロデューサー。 月刊総合誌や『東京人』などに事件からまちの話題、マニアックなテーマまで記事を発表。生命保険会社PR誌の企画制作や単行本の編集も行う。著書に鉄道と地方の再生に生きる鉄道マンの半生を描いたヒューマンドキュメント『鉄道技術者 白井昭』(平凡社、第38回交通図書賞奨励賞)、ボランティアで行っているアドバイスの経験から生まれた『1点差で勝ち抜く就活術』(坂田二郎との共著、平凡社新書)、『ひと目でわかる六法入門』(三省堂編修所、三省堂)の企画・制作。

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『龍馬伝』はマンガである。


週末、小学校時代の同窓会に出席して恩師と話していたら、こんなことを言われた。

「俺、『龍馬伝』を最初は見る気にならなかったんだよね」

中学の校長を最後に定年となった恩師は、社会科の教師だった。

「なぜですか」

「自分の中の龍馬像が崩されるのがいやだったから」


坂本龍馬。幕末の志士の中でも特異なキャラクターと、既存の枠組みを超えて、時代を縦横無尽に駆けめぐる活躍ぶりで思い入れの強いファンが多い。加えて司馬遼太郎。それほど歴史好きでない日本人にも、龍馬像は彼の小説によって強烈に刷り込まれている。そういう国民的キャラクターを扱えば、「イメージが違う」と集中砲火を浴びることは必定。どうしたら受け入れられるのだろうか?


その演出上の答えが「マンガ」だと製作者たちは考えたのだろう、そう私は思う。


■『龍馬伝』を「マンガ」的演出にしなければならなかった理由

俳優たちは、これでもかこれでもかと、徹底的にオーバーアクションの演技をする。

まさにマンガだ。『龍馬伝』ではやたらとアップが多用されており、長いカットでフレームインしているのが顔しかなかったりする。俳優は大変だろう。いきおい、演技をオーバーにせざるを得ないのかも知れない。


最近のドラマはマンガを原作としていたり、マンガ世代をターゲットにしていたり、はたまたマンガで育った世代が作り手だったりするので、全てがオーバーアクションでマンガ的だ。最近のドラマはほとんどそうだ。見ていて鼻につくことが多い。

しかし、『龍馬伝』のマンガ的演出の目的は他にある。「龍馬と、幕末の志士たちをめぐる既存のイメージを裏切る」のが目的だからだ。


それが一番わかりやすく表現されているのが、滝藤賢一演じる薩摩藩の小松帯刀だ。『篤姫』で瑛太が演じた小松帯刀は、史実とは違って篤姫と幼なじみであり、思慮深く優しい人物に描かれ、それまでどちらかというと地味な扱いだった帯刀は一躍人気者となった。ところが『龍馬伝』では、帯刀は徹底して「キレキャラ」として描かれている。このように、他の大河ドラマで作られたイメージをもわざとひっくり返すのだ。


■岩崎弥太郎はなぜ汚いのか

それを受けた『龍馬伝』演出のもうひとつのポイントは、「岩崎弥太郎の視点で描く」という戦略だ。

つまり「龍馬自身、あるいは歴史家のような視点ではなく、いかにもバイアスのかかっていそうな当事者の視点から語る」という、おそらく大河ドラマ始まって以来の行儀の悪い設定である。


こうすれば何でもできる。史実にないエピソードも入れ放題だ。「よくもまあ」というシーンを、読者もたくさん目にしたはずである。

語り手に権威があるという設定ではいけない。それが「本当らしいこと」とされると、その途端に視聴者のもつ「龍馬像」とのコンフリクトが起こってしまうからだ。だから、香川照之演ずる岩崎弥太郎はあんなに汚い格好で、下品な人物造形になっているのである。「実際の岩崎弥太郎はあんなに汚くなかった」と三菱がNHKに抗議したらしいが、その批判は的を外している。

「あいつの言ってることは本当なのかぁ」と思われるようにするのがちょうどいい。

絵空事として見るという枠組みを作ったことで、福山龍馬は視聴者に受け入れられることになったのだ。


■弥太郎が背負っていたもの

『龍馬伝』の前半、土佐藩下士の岩崎弥太郎は、家が貧しいので山ほどの鳥かごをしょって行商して歩いていた。弥太郎は、不思議なテーマ曲「雑草魂」(戊辰戦争の軍歌かオッペケペ節の流れかと思ったが、なんとトルコの軍楽のリズムなのだという)とともに鳥かごをしょってうろうろする。後藤象二郎に取り立てられた後も、京の動きを探るように命ぜられた弥太郎は、やはり「鳥かごスタイル」の間者として京の街をうろつくのだ。


弥太郎にそんな格好をさせていた意味が判明するのが、第45回「龍馬の休日」である。

長崎で土佐商会主任を務めていた弥太郎は、イギリス船の水夫が殺害され、海援隊が下手人に疑われたイカルス号事件の責任を取らされそうになり、その理不尽への怒りが龍馬に向かって爆発した。


激高した弥太郎は、持っていた小さな鳥かごをばりばりと壊すのである。


そこで、初めて「鳥かご」とはそれまでの弥太郎の人生の制約そのものの象徴であったことがはっきりする。弥太郎は貧しい家庭や、土佐藩で虐げられた存在の下士であること、そして江戸幕府の支配体制そのものの矛盾をてんこ盛りに背負って歩いていたのである。この、鳥かごをしょってうろうろするという行為自体が、弥太郎のみならず幕末の激動期に惑う日本人を象徴している。


弥太郎がばりばりと壊したのは、身分制度であり、社会の制約であり、幕藩体制そのものであった。つまり、余計な登場人物を出さずに、弥太郎のこの行為で江戸幕府の瓦解を表現してしまったのである。


■小道具に語らせる、幕末の人々の「迷い」

そうやってみると、『龍馬伝』では実に小道具が効果的に使われていることがわかる。

近藤正臣の怪演が光る、土佐藩主山内容堂は泥酔したあげく、必ず仏の掛け軸のかかった部屋に駆け込む。それは蒼井優演じる、隠れキリシタン芸者のお元が地下教会でマリア像に救いを求めるのと全く同じだ。藩主と芸者。その悩みと救いを求める気持ちは同じだという脚本・演出にはしびれる。


しかし、もっとすごいのはこれだろう。お元を間者として使っていた、石橋凌演じる長崎奉行は、なんとお白州でカメレオンを飼っている。幕府から治安を任されているはずの奉行が、情勢の変化をいち早く知ることができる長崎の地で、幕府と倒幕勢力、両方をカメレオンよろしく同時に見ながら、どちらにつくか迷っているのだ。


マンガに徹する一方で、大きな時代の曲がり角での人々の「迷い」をさまざまな手法で表現する。そこに『龍馬伝』の非凡さがある。