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トヨタ生産方式は名鉄ゆずり?――名古屋のユニークさを展望電車「名鉄パノラマカー」からさぐる①

トヨタ生産方式は名鉄ゆずり?――名古屋のユニークさを展望電車「名鉄パノラマカー」からさぐる①

高瀬 文人

フリーランスのライター/編集者/書籍プロデューサー。 月刊総合誌や『東京人』などに事件からまちの話題、マニアックなテーマまで記事を発表。生命保険会社PR誌の企画制作や単行本の編集も行う。著書に鉄道と地方の再生に生きる鉄道マンの半生を描いたヒューマンドキュメント『鉄道技術者 白井昭』(平凡社、第38回交通図書賞奨励賞)、ボランティアで行っているアドバイスの経験から生まれた『1点差で勝ち抜く就活術』(坂田二郎との共著、平凡社新書)、『ひと目でわかる六法入門』(三省堂編修所、三省堂)の企画・制作。

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*名古屋で知らない人はいない、パノラマカー。「フォルクスワーゲンやポルシェのように、それまでなかったけれど、あるのが当たり前の存在」と評する人も。48年の活躍の末、2009年に引退。


『鉄道技術者 白井昭』(平凡社)という本を出しました。本エントリはそのサイドストーリーをお届けします。

実は、この本は鉄道モノであって、鉄道モノではないんです。そのお話をします。


■なぜ、名古屋は名古屋なのか

名古屋というのは一種独特です。東京とも大阪とも違う。

特に、名古屋のモノづくりとサービスは、他のどこにも似ていない。

見栄っ張りとケチとが同居した、とことん堅実でド派手なプロダクト。

喫茶店の「モーニング」のように意表を突くサービスが当たり前の日常。

どうしてそんなものができあがるのか、長い間知りたかったのです。


つい最近まで、名鉄の「パノラマカー」という電車がありました。中京地方の方なら誰でも知っている、「名古屋のシンボル」と言ってもいいでしょう。

乗客を一番前の展望席に座らせ、前の景色を楽しめる電車。これも、東京でもなく大阪でもなく、名古屋で生まれたイノベーションです。その2年後に小田急「ロマンスカー」も同様の展望室を実現させますが、パノラマカーは「特別な料金をとらず、誰もが乗って楽しい電車を」という方針をぶらさずに、ゼロから作り上げることができました。


そこでパノラマカーをケーススタディに、同車を企画し設計を統括した鉄道技術者の白井昭さん(元名鉄運転課長、企画課長、元大井川鐵道副社長)にじっくりお話を伺う機会をいただきました。

そこから見えてきたのは、戦後間もない名古屋鉄道の経営改革を、現代にも通じる考え方で成しとげた、ふたりの「ビジョナリー(ビジョンを持った経営者)」の姿でした。


ひとりはもちろん白井さんです。白井さんは名鉄の技術者としてパノラマカーを昭和36年に開発、そして東京オリンピックに間に合わせようと突貫工事で作った東京モノレールに出向、車両設計責任者として最初の大量・高速輸送用モノレール車両を世に送り出します。そのほか、日本初の高速道路である名神養老サービスエリアの開発、ホバークラフトの導入など、「夢の乗り物」を次々に手がけた「高度経済成長時代の寵児」だったのです。


そしてもうひとりが、土川元夫という経営者です。土川は名鉄の社長、会長として昭和40年代までの名鉄の発展と多角化に力を注いだ経営者です。しかしその発展の源流は、戦後まもなく名古屋鉄道専務として、他のどんな日本企業にも例を見ない「従業員全員参加」という革新的な手法の経営改革だったことは、今では忘れ去られています。しかし改めて掘り起こしてみると、それは驚くべきものでした。


■なんと、戦後まもなくステイクホルダー論をとなえる経営者がいた

土川は専務だった昭和24年、戦後の混乱から脱したばかりの名鉄で、「合理化運動」と呼ぶ経営改革に着手しました。

徹底的なコスト削減。これ自体はよくあることです。しかし土川の合理化は、手段として「従業員全員参加」を打ち出したところが実に非凡でした。名古屋本線、犬山線......などと職場ごとに会議体を設け、その仕事に関係する社員なら誰でも参加オーケー。「黒字線はさらに収益を高める工夫を、赤字線は収支トントンへの工夫を」をスローガンに経費節減と増収策のアイデアを出させ、有望なものはすぐ実行するという方法でコスト削減を進めたのです。


鉄道は労働集約型産業です。合理化は「人べらし」につながるため、労働組合は基本的に反対します。特に、戦後まもなくの労働運動の高まりで、国鉄をはじめ各鉄道会社の労組はイデオロギーも背景に、激しく経営側と対立していた時代でした。

しかし、名鉄だけは違っていました。独自の労使協調路線を歩んでいったのです。土川が合理化にあたって定めた原則が、社員たちに受け入れられたからです。


・合理化によって出る余剰人員があっても絶対に整理しない。

・合理化によって出る利益は次のように分配する。

  (イ)社会公共へのサービス

  (ロ)株主の利益安定と会社の内容強化

  (ハ)従業員の待遇改善


人員整理をしないという約束は、社員に大きな安心感を与えました。そして、2番目に掲げられた「利益三分法」と呼ばれた分配原則には驚かされます。2000年頃、株式市場の国際化にともなって「会社はだれのものか」論が闘わされ、ライブドア事件でも蒸し返されました。昨年のオリンパス事件でも厳しく問われた問題です。ところが、昭和24年の段階ですでに、土川は「ステイクホルダー論」を唱えているのです。


■トヨタ「カイゼン」に影響した? 「全員参加」の名鉄合理化

土川の経営改革は、日本初の経営コンサルタントである荒木東一郎が加わっての社内組織化で、全社的に広がりました。若い社員たちは「自分たちが経営に参加している」そういう実感を得て、熱狂的に合理化に取り組みました。それらの若い社員の中に、白井さんがいました。この土川と白井の合理化プロジェクトでの出会いが、その後パノラマカーとなって実を結ぶことになります。


昭和20年代の名鉄経営改革は、いわゆる「生産性向上運動」「QC活動」によく似ています。「ムリ・ムダ・ムラ」を除いて、生産性を向上させる、アメリカの経営学者、エドワード・デミング博士が提唱したもので、日本では1955(昭和30)年に発足した「日本生産性本部」が発足して普及に努め、高度経済成長につながりました。ところが土川は、さらに前の1949(昭和24)年に、既に着手をしていたというわけです。


この経営改革で名鉄は、当時の金で20億円のコストを浮かせることに成功しました(単純に現在の価値に換算するのは難しいが、500億円はくだらないと思われます)。これが名古屋の企業にショックを与え、「ぜひうちの社にも教えてほしい」という求めが殺到。名鉄と他社との交流会が盛んに行われるようになりました。中でも熱心に名鉄の合理化ノウハウを吸収したのはトヨタ自動車だったと白井さんは回想します。


トヨタは生産管理や生産技術を徹底的に磨き上げ始めました。白井も参加して名古屋商工会議所で行われた合理化交流会では、「どんな工員が作業しても、質が一定に保たれるための研究」を発表していたといいます。トヨタは昭和30年の「トヨペット・クラウン」で量産車メーカーとしての最初の足がかりをつかみますが、まさに、その前夜の話。すでに「トヨタ生産方式」の芽が出ていたのです。


トヨタの技術者、大野耐一(のち副社長)によって「かんばん方式」が開発されたのは昭和30年代なかばのことです。工員が全員で工程の合理化に取り組むカイゼン運動も、全員参加の名鉄の合理化と非常に似ています。交流会や名鉄の合理化ノウハウが、トヨタに実際にどれほどの影響を与えたかはさらなる検証が必要ですが、昭和20年代末に企業の壁を超えて生産の合理化を研究していた名古屋の企業が、高度経済成長で飛躍したと考えると、「名古屋の独自性」が形作られるひとつのファクターとして「土川の名鉄」があったかもしれないのです。


次は、パノラマカーがどのように開発されたか、というお話に進みます。