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書評:『ケプラーとガリレイ: 書簡が明かす天才たちの素顔』

書評:『ケプラーとガリレイ: 書簡が明かす天才たちの素顔』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第51回_ケプラーとガリレイ.pngケプラーとガリレイ: 書簡が明かす天才たちの素顔
トーマス・デ・パドヴァ(著)、藤川 芳朗(翻訳)

とても興味深い本だ。作者は、コペルニクスの地動説を揺るぎないものにした2人の知の巨人を、2人の交換書簡を媒介にして、その素顔を見事に浮かび上がらせた。僕たちの社会常識では、「それでも地球は動いている!」と「ピサの斜塔でおこなわれたことになっている実験」が(どちらも、恐らく創作だが)「執拗に生き続けている」ため、ガリレイは天文学の父として令名赫赫たるものがあるが、「そうした伝説が入りこむ余地のない」ケプラーは、なかなか人口に膾炙しないのだ。しかし、2人の業績を虚心坦懐に比較すれば、その差は歴然たるものがある。天体観測に望遠鏡を導入したこと(そして木星の4つの衛星を発見した)がガリレイの最大の業績だが、片やケプラーは、かの有名な3つのケプラーの法則の発見をはじめとして、光学(例えば、「目を光学に基づく器官として正しく理解した」)や物理学(ニュートンの先駆者として)、数学(ケプラー予想等)の分野でも時代を先取りした数々の目覚ましい業績を残しているのである。

この2人は、人間としても好対照であった。トスカーナ大公国を支配するメディチ家の宮廷哲学者として優雅な生活を送る俗臭ぷんぷんたるカトリックの都市貴族、ガリレイ、片や気まぐれで手元不如意なルドルフ2世に仕えるプロテスタントで実直そのものの貧しい皇帝付数学者(未だかつて俸給が決まり通り支払われたことはなかった)、しかし、また同時に2人とも時代の子であって、占星術師でもあったのだ。ガリレイは、「トスカーナ大公のために星占いをして、ひどいしくじりをやった」、片やケプラーはこう述べる。「占星術は恐らく天文学の愚かな娘なのであろう。(中略)娘が何も稼がなかったら、母親は間違いなく飢えに苦しむほかないであろう」と。このように性格も気質も異なるイタリア人とドイツ人が、何故、書簡のやり取りを行うようになったのか。

最初に手紙を書いたのは、ガリレイだった。その理由は簡単で、7歳年下のケプラーの方が、早く著作(宇宙の神秘)を刊行して、ガリレイにも贈り、天文学者として地歩を固めたからだった。「科学者は、自分が誤りを犯したときはミモザ(この場合はオジギソウに等しい)であり、他人に誤りを見つけたときは咆哮するライオンである」。木星の衛星を見つけたガリレイに嫉妬の嵐が吹き荒ぶ。この窮地を救ったのは、皇帝付数学者だった。実直なケプラーは、ガリレイの求めに応じてガリレイを全面的に支援した。ガリレイは、彼の支援(書簡)を立身出世のために全面的に活用した。しかし、不思議なことに、ガリレイがケプラーの業績を評価することはまったくと言っていいほどなかったのである。むしろ、「児戯にも等しいこと」と冷笑したのだ。アインシュタインはこう述べる。「この決定的な進歩がガリレイのライフワークに何の痕跡も残さなかったことは、創造的な人間がしばしば受容能力に欠けていることを示す、グロテスクな例である」と。2人の書簡はガリレイが求めたものを常にケプラーが満額回答する一方で、ケプラーが求めたものをガリレイははぐらかし、何一つ正面から受け止めようとはしなかったことの繰り返しである。かわいそうなケプラー。そして、2人は一度も会うことはなかった。

ケプラーは、驚くほど多層的な人だった。「月の夢」という著作には、月旅行が、アポロ宇宙船が先取りされている。そして、何よりも素晴らしいことには、ガリレイの「真理探究の道連れ」であったケプラーは、科学者の心を乱す激しいライヴァル意識とは無縁の人だった。「世界の和声学」で発表されたケプラーの第3法則(惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する)は、数を宇宙の秩序の中心と見なす点で、明らかにピュタゴラスの伝統を引いている。(そう言えば、「ピュタゴラスの音学」という名著があった)。また、ケプラーが生涯をかけて完成させた精緻なルドルフ表(天文表)は、後進の大きな助けとなった。ケプラーの宇宙についての思索は、後にアインシュタインによって完成されることになる。

ガリレイは、最終的にはフィレンツェのパンテオン、サンタ・クローチェ教会に「壮麗な墓碑」を得た。ケプラーは、レーゲンスブルクで客死した。墓地は30年戦争で破壊されたが、「ケプラー自身が決めておいた墓石の碑文だけが現代まで残っている。『かつて我、天空を測れり/今は地の影を測る、かつて精神は天空にあり、今は肉体の影が地を這う』」。ケプラーは不当に扱われているのだろうか?そうではあるまい。例えば、天才、マンデルブロは自伝の中で(自らのアルキメデスのエウレカを)「ケプラー的瞬間」と名付けた(「フラクタリスト」)。真実は、時間の長短こそあれ、何れは万人の認めるところとなるであろう。