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書評:『江戸しぐさの正体』

書評:『江戸しぐさの正体』

出口 治明

ライフネット生命保険 代表取締役会長兼CEO。1948年三重県生まれ。京都大学を卒業。1972年に日本生命に入社、2006年にネットライフ企画株式会社設立。2008年に生命保険業免許を取得、ライフネット生命保険株式会社に社名を変更。

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第84回.jpg江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』 
原田 実(著)

知ろうとすること。」を読んで、僕の心に一番強く残ったのは、「トンデモ論に対して、正しいデータを出して、誠実で揺るぎない態度で撃破することが大切だ」という趣旨のところだった。まさにそれを文字通り実践した本に出合った。それが本書である。

「江戸しぐさ」については、昔、確か地下鉄の広告で見かけた記憶がある。「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」が3大江戸しぐさと言われているようだが、「傘かしげ」(すれ違うとき、相手も自分も傘を外側に傾けて、一瞬、共有の空間をつくり、さっとすれ違う)は、確実に絵で見た記憶が残っている。その時は、多少の違和感は感じたものの(江戸時代の文学作品等をかなり読んでいたが、その中では江戸しぐさが全く出てこなかったので)、「へえーっ、そうなんだ」と思ったぐらいで、それ以上深く詮索しようとは考えなかった。著者は、第1章で「江戸しぐさ」を概観した後で、個々の「江戸しぐさ」を丁寧に検証していく(第2章)。正しいデータを踏まえて、個々の「江戸しぐさ」を1つずつ撃破していくところは実に痛快だ。

その上で、著者は、誰が「江戸しぐさ」なるものを創始し、誰が広めたのかを丹念に追求していく(第3章、4章)。このくだりは、まるで推理小説を読むように面白い。こうして「江戸しぐさ」なるものが1970年代に創始され、80年代に広く提唱されたものであることが明らかにされる。問題は、このような新しく創られた「伝統」が、公教育の現場で積極的に導入されていることだと著者は指摘する(第5章、6章)。それが本当なら誠に由々しきことであろう。少なくとも公教育の現場ではウソを教えてはいけない。「江戸しぐさ」が実は「昭和しぐさ」であることが明らかになった以上は、100%譲って仮に教えるとしたら「昭和しぐさ」として教えるべきであろう。著者は、「現状否定のために過去を美化することの無意味さ」を指摘する。その通りであろう。

ところで、何故このような事態が生じたのだろう。著者は「専門家が社会的責任を果たさなかった帰結」だと主張する。確かに「歴史学・近世文学・民俗学など江戸時代の文化に直接関わる分野」の専門家であれば、「江戸しぐさ」が架空の伝統であることにすぐ気づいたはずである。ルカーチが「歴史の専門家は、自分たちにとっての真の利益のために貢献すべきであり、史料の偽造(およびその解釈)を発見し指摘しなければならない義務と責任がある」と述べている通りである。「江戸しぐさ」の普及に貢献したメディアは以って瞑すべきであろう。