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本当は怖い「夏休みの宿題の放置グセ」

本当は怖い「夏休みの宿題の放置グセ」

原田 由美子

HRD(人材育成)サービスを提供するコンサルティング会社の代表です。

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「夏目漱石の「こころ」を読んで、感想文を書く」という宿題が出たのは、確か高校2年生だったと記憶しています。文庫本を手に、パラパラと頁をめくり、あとがきを見て頁を閉じた。これがこの宿題への私のアプローチでした。そして本は放置され、私の代わりに母がその本を手に取り原稿用紙に向かっていました。

私は、小さな頃から本を読むことはとても好きでした。特に伝記が好きで、小学校の図書館にあった本では、キュリー夫人、エジソン、ヘレン・ケラー、野口英世などを読んだことを今でも覚えています。中学生では、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、谷崎潤一郎、高校生では、村上龍さん、群ようこさん、山田詠美さんなどの本を好んで読んでいました。

そんな本好きの私でありながら、なぜ「こころ」を読んで感想文を提出するように・・・という宿題を放置したか。

今回はこのような経験から、「夏休みの宿題の放置グセ」がもたらす影響について考えます。

夏休みのスタートは、計画から始まる!・・・・が
夏休みに入ると、私はまず「夏休みの宿題に取り組む計画」を立てていました。この段階ではとてもウキウキして、毎年「今年こそは早く終わらせるんだ!」と、意気込んでいました。計画は、手強そうなものを先に片付け、後で、楽なものに移行する計画でした。食事の際、好きなものを後回しにする感覚と同じです。

そして取り組み始めます。

手強そうなものに取り組み始めてしばらくすると、(ちょっと疲れたな・・・休憩)と、他のことをし始めます。そして、他のことをする時間がだんだん長くなり、徐々に計画や宿題は視野から外れ、気が付くと、夏休みが終わる直前になっているのでした。そして、提出日ぎりぎりにやっつけで、とても雑な状態で提出します。

今考えれば、そんな雑な提出物。「こいつ、ちゃんとやらなかったな」ということがバレバレです。でも当時は、先生のことなんて全く考えていません。それよりも、(なんで先生はこんな宿題を出すんだ!)、(せっかく出したのに、雑なことをチネチ言うなんて!)、(私は、夏期講習に行ってたんだから、学校に頼らずに勉強はしてる!)など、心の中では先生を責めていました。何と自分勝手な学生でしょう。

このサイクルは毎年続き、結果的に大学時代の提出物全般にわたって、このような状態でした。

「放置グセ」の本当の怖さ
そして社会人になり、「夏休みの宿題」からは解放されたものの、「夏休みの宿題の放置グセ」は、私の仕事にヒタヒタと忍び寄り、影響を及ぼしてきます。

その影響とは、「納期の見積もりの甘さ」、「頼まれた仕事の安請け合い」です。さすがに、仕事で人に迷惑をかけ痛い目にあうと、自分の考え方ややり方を見直す必要に迫られます。

そしてある時、次のようなことに気が付きました。

仕事を頼まれると、全体的なイメージは何となく捉えることができているものの、着手してはじめてわかる「考えなければいけないこと」が想定できていなかったのです。そのため、着手が遅れると、考えることが次から次へと出てくるため、その分納期に間に合わないという事態が発生していたのでした。

そこで、着手を早めることにしました。

すると、着手そのものは早まったのですが、ダメ出しややり直しのオンパレード。

さすがにこれには凹みました。

しかし、凹んでばかりもいられません。ダメ出しややり直しを言い渡された点を見ると、どうも「考えが浅い」ことを指摘されているようです。

「考えが浅い」

私の場合の「考えの浅さ」とは、あっちこっちの情報を寄せ集め、要領よくまとめたものに対してでした。その結果、着眼しなければならない本質的な課題への掘り下げがなされておらず、成果物そのものが浅いものになっていたので、それを指摘されていたのでした。

本質的な課題を掘り下げるためには、多方向に意識を向けて考えることや、長い時間思考し続けること、考えたことを整理しながら筋道を立てることが必要です。実は、この力は、学校教育の中では「数学」などで鍛えられる分野です。しかし私は数学が苦手だったので、考える訓練そのものを避けて通ってきました。また、数学以外では「夏休みの宿題」も、考える訓練に適しています。長い時間をかけて取り組むテーマが与えられているからです。

特に読書感想文はその典型で、自分の力で考えて、自分の言葉でまとめることが必要です。しかし私は、読書感想文には「先生が期待する読書感想文のレベル」というものがあり、それには「ひな形」があると思い込んでいました。その「ひな形」が見つけられなかったので、気持ちが萎え、宿題そのものを放置するという愚行に及んでいたのでした。

今考えると、なんという勿体ないことを。夏休みの宿題や苦手な数学が、社会人として不可欠な「考える力」を鍛えるためのものだったとは・・・。

学生時代の自分に伝えたいこと
このように振り返ってみると、私の学生時代の学習は、受験勉強に重きが置かれていたため、大量に記憶し、短時間でアウトプットすることが中心でした。そのため、たくさんの問題のパターンにあたり、その解を覚える訓練に重点を置いていました。

しかし社会人になり、特に1995年以降、人材育成の仕事に携わるようになってから、社会環境は常に大きく変動し、その変動の中では「パターン化された正解」を探していても、成果が上がらないという事に気づきました。
社会での厳しい現実から、与えられたテーマを長い時間掘り下げて取り組む「夏休みの宿題」や、自分の力で解を導き出す数学的思考力がとても重要であることが、ようやく自分事としてわかるようになったのです。

このことから、もし今読書感想文を書くことに萎えている自分を目の前にしたら、「正解を探さなくていいよ。自分が素直に感じた事を、自分の力でまとめてみたら?」と言いたいと思います。

「夏休みの宿題」をもとにした私の経験が、何かのお役に立てば嬉しいです。