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切れているではないか
»2011年1月 3日
読むBizワクチン ~一読すれば身に付く体験、防げる危険~
切れているではないか
アイデアマラソン研究所所長 ノートを活用したアイデアマラソン発想法考案者であり、電気通信大学講師。現役時代は三井物産の商社マン。 企業の創造性トレーニングでは、ジャパネットたかたの全社員運動、アサヒビールでの研修などを続けている。独創性を命と考えている。
当ブログ「読むBizワクチン ~一読すれば身に付く体験、防げる危険~」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/idea-marathon/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
飛行機搭乗珍体験
切れているではないか
私は氷りついた。
バハレーンからサウジアラビアのリヤドまでの短いフライトの中だった。
ヨメサンがお産で日本に帰国して、無事に男の子を産み。数か月ほど経って、私たちが生活しているリヤドに戻ってくる。赤子をいれて3人の男の子たちを連れている。
東京からバハレーンまでは、JALでくる。そこまではJALのファミリーサービスがあって、まずは安心。
「バハレーンまで迎えに行ってきなさい」と、事務所長の好意で、バハレーンに行って、ヨメサンと息子たちは無事に到着。
次の日の朝のフライトで、リヤドに向かう。バハレーンの空港から、サウジ航空は予定通り出発した。飛行時間は約1時間。
短いフライトなので、食事は出ない。カートンのジュースが配られるだけだ。
私たちの座席は窓側前後2列に分かれて座っていた。私と長男が前列、ヨメサンと二男が後列。
しばらくして、キャビンアテンダントが、入国のカードを配り始めた。私は2枚受け取った。英語とアラビア語での記入欄がある。
まずは私の分を書き終えた。パスポート番号も、パスポートの発行日、パスポートの有効期限、すべて暗記していたろう。さっさと書き終えた。次はヨメサンの分だ。ヨメサンは赤子を抱いている。子供たち3人は、ヨメサンのパスポートに併記されている。
「入国カード、私が書くから、パスポート渡してくれるか」
「はい」と、ヨメサンはハンドバッグから自分のパスポートを取りだし、座席の隙間から、前列の私に渡した。
(さて、まずパスポート番号、それから発行日と、それから、有効期限と...)
有効期限の日付が...。
「あれっ、エエッ、な、なんだ」
パスポートが3日前に切れていた。3日前と言えば、まだ日本を出発していない。
「おい、た、大変だ。お前のパスポート、有効期限が切れている!」
「うそ、そんなはずないわよ。日本を出る時も、何も言われなかったわよ。バハレーン入る時も、出る時も、大丈夫だったわよ」
「みんな、気が付かなかったんだ。これは大変だ。どうしよう」
「どうなるのよ」と、依然、すました顔をしている。
(注:今なら、パスポートのデータは電子データで読み取るので、こんなことはもはやあり得ない)
サウジ航空は、着陸態勢に入った。
サウジアラビアは、多分世界一、入国に厳しい国だ。入国に関しての、ビザの有効期限一つでも、取得後1カ月以内に入国することとなっていて、1カ月は月齢で29日。そうすると30日目に到着すると、ビザの有効期限が切れていることになり、入国を拒否される。まして、パスポートの有効期限が切れているなんて、論外だ。絶対に入国できない。
入国を拒否されると、今、乗ってきた次の飛行機が(たとえ次の日でも、3日後でも)再度、来るまで待ち、それに乗って、追い返される。現に何人か、そのような体験に遭っている出張者がいた。
たとえ子供たちや赤子がいても、ほぼ同じだろう。空港内に留め置かされて、私が差し入れする食糧を食べて、毛布で寝て、今、来たバハレーンに戻るが、バハレーンも切れているパスポートでは入国はできないはず。日本の領事館に助けてもらう以外、方法がない。
「ど、どうしよう。とんでもないことになるぞ」
ヨメサンもようやくその厳しい状況に気が付き始めた。
「どうするの」私のヨメサンは、こんな時にもじたばたパニくらない。そこが凄い。
「......」私は考えた。どうすれば良いか。
(あの方法しかない)
そして、飛行機は予定通りサウジアラビアのリヤドの(旧)空港に到着した。
まずは、パスポートコントロールだ。すでに長い入国者の列ができていた。
私一人なら、さっさと飛行機を降りて、早足で、列の前に並ぶが、赤子を抱えた家族連れでは、それをしなくてもよい。
サウジアラビアの素晴らしい点の一つは、家族連れは最強、最優先だということ。どんなに長い人の列があっても、この時も20メートルほどの人の列があった。家族連れは最優先で、みんなが「前にどうぞ」と、案内してくれる。
たちまち一番前の列だ。私は二人のパスポートのビザの頁(パスポートの有効期限の書かれた頁ではない)を開いて、私のパスポートを上に置いて、右手に持ち、左手に二男をダッコしていた。
私の家族の番になった。高い台の上に、入国管理官がいる。私は二つのパスポートを、ビザの入った頁にしたまま、
バンとおいて、
「サラーム・アレイコム」(神の恩恵あれ!というアラビア語のこんにちわ)
「アレイコム・サラーム」(そちらこそ!というアラビア語の挨拶の受け)を係官が言いながら、私たちのパスポートを開きかけた時、
「今だ!」と、私は左手にダッコしていた二男の半ズボンからお尻を、それこそ思い切り、(すまない!)ギューとつねった。強烈につねった。
二男は突然のお尻の突然の激痛に、
「わああ。ああああ、わああ」
と、大きな叫び声を出し、入国管理官も私も驚いた。
「あれ、どうしたの」と、シラーと私が言う。
「ああああん、わーああん」と、二男は大声で、場所も紙面もわきまえず大きな声で泣きだした。泣き続けなければ、再度と思ったが、予想以上に大きな声で、サイレンを発した。
入国管理官は、(予定通り)二男をギロッと睨みながら、
(うるさいなあ)
と、露骨に迷惑そうな顔を丸出しで、私のパスポートと入国カードを一瞥し、さっさとサインをして、
ポ、ポ、ポーン
と入国許可のハンコを押して、私に突き返した。
(早く行け)とばかりの入国管理官の顔だった。
二男のお尻を2回目で抓る追加サイレンの用意もしていたが、承認を受けたパスポートをさっと受け取り、子供を下におろして、
「さあ、行こう」と、まだ、訳も分からず、自分が家族を救う大役を果たしたことの意味も知らずに泣いている二男を急かして、空港の外に出た。出るまでは、静かにしていた。
「わあ、やったああ」
私は二男の頭を撫でて、抱きしめて、外に出ていった。
入国後、次の日に、リヤドの日本大使館に行って、パスポートを見せたら、非常に強く叱られた。いくつかの必要書類の提出を要求され、わび状も書いた。無事に延長か、新しいパスポートの発行をしてもらった。パスポートを失効させることは、大変なことだ。
「しかし、よく切れたパスポートで、この厳しいサウジアラビアに入国できましたね」と驚いていた。
教訓 30年以上前のことだったが、今でも起こり得ることだ。
自分のパスポートの有効期限くらい、事前にチェックしておいてくれよな。(これはヨメサンへの苦言です)
はい、みなさんも注意しましょう。パスポートは単に持っているだけでなく、有効期限に注意しましょう。国によっては残りの有効期限が一定期間以下だと入国できないところもあります。
追伸 「絶対に乗ってはいけない」空飛ぶ棺桶の、ツポレフ154が2011年1月1日に、西シベリアのスルグト空港で離陸中に炎上し、4名死亡。大事故を起こしている。私の第一回目のブログ「絶対に乗ってはいけない」(下の関連記事の中の同項目参照)
切れているではないか
私は氷りついた。
バハレーンからサウジアラビアのリヤドまでの短いフライトの中だった。
ヨメサンがお産で日本に帰国して、無事に男の子を産み。数か月ほど経って、私たちが生活しているリヤドに戻ってくる。赤子をいれて3人の男の子たちを連れている。
東京からバハレーンまでは、JALでくる。そこまではJALのファミリーサービスがあって、まずは安心。
「バハレーンまで迎えに行ってきなさい」と、事務所長の好意で、バハレーンに行って、ヨメサンと息子たちは無事に到着。
次の日の朝のフライトで、リヤドに向かう。バハレーンの空港から、サウジ航空は予定通り出発した。飛行時間は約1時間。
短いフライトなので、食事は出ない。カートンのジュースが配られるだけだ。
私たちの座席は窓側前後2列に分かれて座っていた。私と長男が前列、ヨメサンと二男が後列。
しばらくして、キャビンアテンダントが、入国のカードを配り始めた。私は2枚受け取った。英語とアラビア語での記入欄がある。
まずは私の分を書き終えた。パスポート番号も、パスポートの発行日、パスポートの有効期限、すべて暗記していたろう。さっさと書き終えた。次はヨメサンの分だ。ヨメサンは赤子を抱いている。子供たち3人は、ヨメサンのパスポートに併記されている。
「入国カード、私が書くから、パスポート渡してくれるか」
「はい」と、ヨメサンはハンドバッグから自分のパスポートを取りだし、座席の隙間から、前列の私に渡した。
(さて、まずパスポート番号、それから発行日と、それから、有効期限と...)
有効期限の日付が...。
「あれっ、エエッ、な、なんだ」
パスポートが3日前に切れていた。3日前と言えば、まだ日本を出発していない。
「おい、た、大変だ。お前のパスポート、有効期限が切れている!」
「うそ、そんなはずないわよ。日本を出る時も、何も言われなかったわよ。バハレーン入る時も、出る時も、大丈夫だったわよ」
「みんな、気が付かなかったんだ。これは大変だ。どうしよう」
「どうなるのよ」と、依然、すました顔をしている。
(注:今なら、パスポートのデータは電子データで読み取るので、こんなことはもはやあり得ない)
サウジ航空は、着陸態勢に入った。
サウジアラビアは、多分世界一、入国に厳しい国だ。入国に関しての、ビザの有効期限一つでも、取得後1カ月以内に入国することとなっていて、1カ月は月齢で29日。そうすると30日目に到着すると、ビザの有効期限が切れていることになり、入国を拒否される。まして、パスポートの有効期限が切れているなんて、論外だ。絶対に入国できない。
入国を拒否されると、今、乗ってきた次の飛行機が(たとえ次の日でも、3日後でも)再度、来るまで待ち、それに乗って、追い返される。現に何人か、そのような体験に遭っている出張者がいた。
たとえ子供たちや赤子がいても、ほぼ同じだろう。空港内に留め置かされて、私が差し入れする食糧を食べて、毛布で寝て、今、来たバハレーンに戻るが、バハレーンも切れているパスポートでは入国はできないはず。日本の領事館に助けてもらう以外、方法がない。
「ど、どうしよう。とんでもないことになるぞ」
ヨメサンもようやくその厳しい状況に気が付き始めた。
「どうするの」私のヨメサンは、こんな時にもじたばたパニくらない。そこが凄い。
「......」私は考えた。どうすれば良いか。
(あの方法しかない)
そして、飛行機は予定通りサウジアラビアのリヤドの(旧)空港に到着した。
まずは、パスポートコントロールだ。すでに長い入国者の列ができていた。
私一人なら、さっさと飛行機を降りて、早足で、列の前に並ぶが、赤子を抱えた家族連れでは、それをしなくてもよい。
サウジアラビアの素晴らしい点の一つは、家族連れは最強、最優先だということ。どんなに長い人の列があっても、この時も20メートルほどの人の列があった。家族連れは最優先で、みんなが「前にどうぞ」と、案内してくれる。
たちまち一番前の列だ。私は二人のパスポートのビザの頁(パスポートの有効期限の書かれた頁ではない)を開いて、私のパスポートを上に置いて、右手に持ち、左手に二男をダッコしていた。
私の家族の番になった。高い台の上に、入国管理官がいる。私は二つのパスポートを、ビザの入った頁にしたまま、
バンとおいて、
「サラーム・アレイコム」(神の恩恵あれ!というアラビア語のこんにちわ)
「アレイコム・サラーム」(そちらこそ!というアラビア語の挨拶の受け)を係官が言いながら、私たちのパスポートを開きかけた時、
「今だ!」と、私は左手にダッコしていた二男の半ズボンからお尻を、それこそ思い切り、(すまない!)ギューとつねった。強烈につねった。
二男は突然のお尻の突然の激痛に、
「わああ。ああああ、わああ」
と、大きな叫び声を出し、入国管理官も私も驚いた。
「あれ、どうしたの」と、シラーと私が言う。
「ああああん、わーああん」と、二男は大声で、場所も紙面もわきまえず大きな声で泣きだした。泣き続けなければ、再度と思ったが、予想以上に大きな声で、サイレンを発した。
入国管理官は、(予定通り)二男をギロッと睨みながら、
(うるさいなあ)
と、露骨に迷惑そうな顔を丸出しで、私のパスポートと入国カードを一瞥し、さっさとサインをして、
ポ、ポ、ポーン
と入国許可のハンコを押して、私に突き返した。
(早く行け)とばかりの入国管理官の顔だった。
二男のお尻を2回目で抓る追加サイレンの用意もしていたが、承認を受けたパスポートをさっと受け取り、子供を下におろして、
「さあ、行こう」と、まだ、訳も分からず、自分が家族を救う大役を果たしたことの意味も知らずに泣いている二男を急かして、空港の外に出た。出るまでは、静かにしていた。
「わあ、やったああ」
私は二男の頭を撫でて、抱きしめて、外に出ていった。
入国後、次の日に、リヤドの日本大使館に行って、パスポートを見せたら、非常に強く叱られた。いくつかの必要書類の提出を要求され、わび状も書いた。無事に延長か、新しいパスポートの発行をしてもらった。パスポートを失効させることは、大変なことだ。
「しかし、よく切れたパスポートで、この厳しいサウジアラビアに入国できましたね」と驚いていた。
教訓 30年以上前のことだったが、今でも起こり得ることだ。
自分のパスポートの有効期限くらい、事前にチェックしておいてくれよな。(これはヨメサンへの苦言です)
はい、みなさんも注意しましょう。パスポートは単に持っているだけでなく、有効期限に注意しましょう。国によっては残りの有効期限が一定期間以下だと入国できないところもあります。
追伸 「絶対に乗ってはいけない」空飛ぶ棺桶の、ツポレフ154が2011年1月1日に、西シベリアのスルグト空港で離陸中に炎上し、4名死亡。大事故を起こしている。私の第一回目のブログ「絶対に乗ってはいけない」(下の関連記事の中の同項目参照)